マンションの前で竜児と別れた時には、もう暗くなっていた。

エントランスのオートロックを開ける。また建てられてそれほど経っていない
マンションは、無機質なにおいがする。ひんやりしたエレベータから部屋に降りる。
私専用の階。私専用の家。

鍵を開ける。

「ただいま」

誰もいない。

あたりまえ。ずっと前から誰もいない。この部屋に越してきてからずっと、誰もいない。

部屋に入る。コートを脱いでその辺に投げようとして、思いとどまる。いけない、
いけない。自分ひとりでちゃんとするんだった。クローゼットを開けてコートとマフラーを
かける。

ひとりで生きていくと決めた。もう、竜児には頼らないと決めた。そう宣言した。だから、
もう竜児は来ない。散らかしても竜児は片付けてくれない。散らかしてしまえば、竜児が
きれいにしてくれた部屋から、竜児の面影が消えていく。そんなことには耐えられないと
思った。ひとりで生きていくと決めても、ちょっとだけでもいいから、竜児の名残に
包まれていたいと思った。なのに、いくら努力しても部屋はだんだんおかしくなっていく。

まるでそれが定めのように、竜児の痕跡が消えていった。あまりのことに困り果てて、
業者を呼んできれいにしてもらった。竜児がしてくれていたようにきれいになったけど、
終わった後で自分の馬鹿さ加減に気がついた。竜児の面影は、却って薄まって
しまった。

冷え冷えとした部屋のエアコンを入れ、ガラステーブルの前のチェアに座る。よく、
テーブルを挟んで竜児と話をしたことを思い出す。話をしながら、いっつもテーブルの
汚れをぬぐっていた。変な奴。

「竜児…」

名前をつぶやく。

こたえてくれる竜児は居ない。だって、来るなと行ったのは私。竜児の部屋に行かないと
行ったのも私。これ以上私が竜児の近くにいれば、半分壊れてしまった竜児とみのりんの
間は、もう手を施しようがないほど壊れてしまう。

「竜児ぃ…」

銀行口座の残高はずいぶん減ってしまった。

あのくそオヤジが入金を止めてずいぶん経つ。今では私が使うより早く、あのオヤジが
引き出していく。きっとそれで私がどうなるかなんて、関心はないのだろう。あったとして、
一度会ったっきりの竜児が面倒を見てくれるくらいにしか思っていないのだろう。笑える。
その竜児に面倒を見ないでくれといったのは私だ。もう、竜児は私の面倒を見てくれない。

面倒を見てほしくても、もう、駄目。




ママは終業式まで待たないといっている。早くあのオヤジの匂いを私から消したいらしい。
この部屋から連れだし、あの学校を辞めさせ、友達から引き離し、以前の私のなにもかもを
きれいにぬぐい去ってしまいたいのだろう。クローゼットの中のお気に入りのワンピースの
事を思った。あれも置いていけと言われるのだろうか。

竜児との思い出の詰まったものを、いったいどのくらい持って行けるだろう。

携帯のフリップを開く。さっき撮ったばかりの写真を呼び出す。白いユニフォーム姿で、
引きつった顔の竜児。馬鹿みたい。何でこんな顔するんだろう。接客業なんだからもう少し
にこやかな顔すればいいのに。

「…りゅう…」

名前を口にするだけで、涙が出てきた。馬鹿みたい。もう少しいい顔してくれればいいのに。

最後の写真かもしれないのに。

きりきりと胸が痛む。胸が痛いというのが、文学表現ではなくて本当の体の痛みだと
教えてくれたのは北村君だった。北村君の事を思って私が泣いていたとき、竜児が現れた。
そばにいてくれると言ってくれた。竜児が横にいるだけで、胸の痛みは消えていった。
朝から晩まで、息をするのもつらい毎日だったのに、竜児が横に居てくれるだけで楽に
なった。

今は、竜児のことを思うと胸が痛む。そして竜児は横にいない。もうすぐ、私は竜児の
前から消える。

テーブルの上に置いた袋をとって、チョコレートを取り出す。せめて溶かして型に
入れ直せ、と竜児は言った。わたしがチョコレートをあげたら、嬉しいと言ってくれた。
だから、頑張らなきゃ。どうやって型に入れればいいのかわからないけど、竜児はネットで
調べればわかると言った。竜児がそう言うなら、間違いない。だって、これまでずっと
竜児の言うとおりにしてきて、それで間違いなかった。だから、今日も竜児の言うことを
聞いて、一所懸命チョコレートを作ろう。

竜児はこのチョコレートを受け取って、どんな顔をするだろうか。笑うだろうか。
赤くなるだろうか。それとも、いつものようにうつむいて、髪をいじってごにょごにょ
礼を言うんだろうか。どんな顔でもいい。その顔をしっかり目に刻もう。

竜児にあげる、最初で最後のチョコレートだから。





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