今日の5、6時間目は体育のスポーツテストであった。
前年度のスポーツテストは、シャトルランと握力のみのお手軽科目であったが、
今年から去年に比べ、ハードルは一気に上昇した。

「はぁ〜…鬱になりそ。なんでマラソンの後すぐにシャトランなのよ?」

そう愚痴を零すのは高須竜児の彼女ことお嫁さんの逢坂大河である。
朝のホームルームで担任(31独身効果音は独独独)にスポーツテストの内容を言い渡された。
その瞬間『弁当食べたら早退しよう』と言う者もしばしば。竜児と大河も例外ではない。

「知らねぇよ…去年はもっと楽だったよな。握力だとかさ…」

ちなみに内容はこうだ。

1.準備運動を十分に行い、男女混合で校庭を3週した後街の決められたルートをひたすら走る。
距離はコレと言っては決められてはおらず、20分間休みなしで走るというもの。
校門で黒マッスルが見張っており、歩いている者は減点され、通った回数で評価をつける。

2.10分間の休憩の後、5キロマラソン。至って簡単、校庭をグルグル回るだけであるが、
20分間マラソンの後は相当厳しい。

3.体育館でシャトルラン。25メートル空けられた空間を、CDから流れるテンポにあわせてひた走る。
往復で2回と計算され、平均は60〜70回で、60以降に脱落した者はその分減点である。

事項を記した簡易プリントを渡された瞬間紙飛行機にしたり破ってモルグに葬りさる者も多々。
竜児は鶴を製作し、大河は虎を作って鶴を破壊した。

春田曰く『5時間目からっしょ?それまでは元気に行こうぜ〜♪』などと言っていたが、
その時間が近くなるにつれ、春田の元気はみるみる薄れ、最後には無くなっていた。

現実は酷をいうもので、あっと言う間にその時間は訪れた。
着替えが終わり、ダサい夏用の体操着に着替えた生徒の中に帰宅した者は5人ほどいた。




外に出るとミンミンと鳴くセミは悪魔の申し子のよう、立っているだけで汗が吹き出す。
ぽっちゃり体質の生徒は既に背中のシャツは体と汗で結合されていた。

「いよーう!わたしはこの時を待っていた!」
よく分からない台詞を大声で叫ぶのはもちろん櫛枝実乃梨。
夏に汗と書いて青春と読む彼女は全員が全員と言っていいほど気鬱な状態にも関わらず元気である。

「みのりん…無理してるならやめて。私も既に暑さで死にそうなんだから…」

櫛枝の傍らにはいつもいる竜児も今は体力温存のため日向ぼっこ中である。
痛々しいほど元気な彼女にそうささやくのは逢坂大河。
竜児と日向ぼっこしていた所を拉致されたのである。

「若いモンがそんな事でどーする!私は準備運動してくるぜー!」

そう言うと、校庭を全力疾走し始める始末。とても見てはいられないだろう。
チャンスとばかりに竜児のもたれている壁の左側にチョコンと素早く腰を下ろす。

「櫛枝なんであんなに元気なんだ…太陽のエネルギーをうまく活用しすぎだろ…」
「そうよね…もう…あぁ…言葉が見つからないわ…」

はじめる前からぐったりしている2人だったが、そこで大きな笛の音が鳴り響く。
黒い筋肉の悪魔が光臨した。

「おーうお前ら!夏なのに元気がねぇな!先生のプロテインやるから元気出せ!」

途端に『いらねぇよ』『マジキチ』やらとヒソヒソ声が連呼される。

「ん…?なんだ?まぁいい、さっさと始めてさっさと終わろうじゃないか!」

そう言うと準備運動を開始する。3年にあがっても同じクラスであった北村が準備運動の合図を送る。
全員がダラダラと動き、軽くストレッチした後、早速開始された。



「さぁーて!じゃあ早速始めるとしよう」

最初の校庭3週で既に意識が朦朧としている中、なんとか全員がクリア。
後の20分間はどんなスピードでもいいから街の決められたルートをひた走る。

「あぢ…りゅーじ、私もうダメ…もう…吐き気が…うぁぁ」

竜児の隣、同じペースで走っていた大河が残り5分の所でギブアップ宣言。
元々体力のある大河でも、暑さには弱いらしい。
顔も長い髪も汗でべっとり、フランスの人形の面影もない。

「無理するな、ほらそこのベンチは死角で見えないから休憩しようぜ」

自動販売機の裏を指差す。そこは通り過ぎないと見えない死角となるベンチがあった。
彼女を気遣うのは実に微笑ましい光景だが、他人から見ればただのズルである。

残り1分なのを携帯で確認し、あとはまったり速度で校庭へ帰った。
平均では街を7週するのだが、北村と櫛枝は13週もしていたという。

休憩を挟んで行われた5キロマラソンは以外とすんなり終わり、残す所はシャトルラン。
ぽっちゃり体系のあの人は20分間マラソンの時にめまいで保健室にいったらしい。

そして、そのシャトルランも無事終了。回数は最高200回で、櫛枝は130回であった。
最後まで北村と櫛枝は張り合ったが、129回目で北村はダウン。
ちなみに大河と竜児は最低記録の2回。『楽勝〜♪』と鼻歌を歌いながらステップを
踏んでいた大河は、体育館内は熱で蒸れるがOHISAMA☆の光がないだけで気分上々。
しかし、解けていた体育館シューズの紐に気付かず引っかかりコケて終了したのである。
竜児は当然そんな大河をほっておく事はできず、かばって過去最低記録を叩き出した。


* * *


帰りにスーパーで買い物を済ませる。今晩のおかずは牛角煮とこってりメニューに決まり。
竜児の家より手前に大河の住んでいる家がもうすぐそこに迫っている時の事。

「あの音声…聞くだけで鳥肌が立つほど恐ろしいわ」

『あの音』というのは体育館に鳴り響いていたシャトルランの音声だろう。
テ・レ・レ・レ・レ・レ・レ・レー♪というシンプルな音が繰り返し再生されるのが怖かったらしい。

「手乗りタイガーの弱点は音か…」

片手にエコバッグを持ち、買い物をしたのが丸分かりな格好で竜児が囁く。


* * *


帰路の途中は2人で体育の事で散々愚痴を零し、帰路の途中にある大河の家でシャワーを
浴びさせてもらう。冷や水が気持ちいいこの季節、わざわざ湯船に湯を張るほど大げさな事はしない。
その後はリビングでまったりと時間を削る。一人用ソファに無理やり2人で座り、イチャイチャする。
家族が誰も居ないのに気付いたが、家族の数だけ事情があるので聞かない事にした。
6時に冷蔵庫に入れてあった肉やらを取り出し、高須家へ向かう。
大河は自分の家でなく高須家で食事すると聞かないので、去年通り高須家に世話になっている。
トロトロ牛角煮を馳走になり、寝転びながらパンパンとお腹を叩くのはもちろん大河。
うちわで自分を扇ぎ、パタパタと足を動かしていると、

「んがぁ!!」
「どうした?」
「足つった!あいたたたた!!」

いきなり右足の脹脛を押さえ、身もだえしている。
近寄って暴れる小羊をなだめようとするが既に手の付けようがない。



「おう…じっとしろ、摩ってやるから。こういうのは動くと余計痛くなるぞ」
「うひぃ…こんな事になるのはきっと体育のせいだわ。私に対する冒とくよ!」
「おう…それと水分が足りてないんじゃないか?ほれウーロン、とりあえず起き上がれ」
「ん…足がまたつるのはいやだから膝枕して?」
「膝枕して?じゃねぇよ、恥ずかしい…」
「あーあ、苦しむ乙女をほっとくほど罪深い事なんてないわよ。いいから早く!」

仕方なく正座をし、大河の頭を自分の膝へと誘導する。
「硬」とだけ言い、うずめたり頬を擦りつけたりしてくる。ムズムズするので頬を掴んで
ガッチリ固定する。決していかがわしい何かをしようとしているわけではない。
結局そのままお茶を飲ませ、ドラマを鑑賞し始める始末。
途中でラブシーンがあった。フレンチキスやらのシーンが画面いっぱいに写り、
空気が一瞬で重くなり、居心地が悪くなりもぞもぞと足を動かす。

「りゅーじ」

突然甘い声で声を掛けられ、『何かが起こる』と直感した。

「…なんだ?」
「私達って、結婚するのよね」
「おう」
「そしたら当然夫婦よね。だったらもちろん、よよよ夜のいいい営みというものがあるじゃない」

何を言うのかと思えばそんな事。まぁ、無いことは無いだろう…多分。

「…おう、気にしてんのか?」
「そりゃそうよ…それで…本当に竜児は私で満足できるかって心配で…」

どうやら自分のいたる所に広がる平野が気になるらしい。
確かに、1年生の頃に写真部に『哀れ乳』宣言をされ、学校中で噂になった。
そのせいで大河は自分の胸部に広がる平野にコンプレックスを抱いているのも知っている。
もちろん竜児はそんな事気にしないし、気にも止めていない。

「あー、その点は大丈夫だ。もっと自信を持てよお前らしくもねぇ」
「その言葉が心配だって言ってんでしょうが!あんたは人一倍気を使うんだから、こっちも気を
 使われてないかって心配なの!」
「だー!そんな事より用件を言え!お前の事だから遠回しに言ってるに決まってる!」
「うっ…だからー…その…ロニ…」



多分補聴器を使っても聞こえないだろう、ぽしょぽしょと囁ている。
真っ直ぐ竜児を見上げていたが、それを言うと顔を窓の方へ背けた。
上から竜児の膝に顔を埋める大河の横顔はほんのり桜色。

「…聞こえねぇ。もっとはっきり喋ってくれ」
「あーもう!あんたどこまで鈍感犬!?お風呂に一緒に入ろうって言ってんの!女の子に何言わせるの!?」

起き上がった大河は、頬をりんごのように膨らませ、竜児を睨みつける。顔全体を真っ赤にし、
爪楊枝でつついたら破裂しそうなくらい。

「…え?お風呂?俺と?なんで?」

平然とした素振りで振舞うが、近寄るだけで不審者と勘違いされるような目を限界までギラつかせ、
大河を見やる。決して香港へ売り飛ばそうとなどとは考えていない。

「いきなり営みとかは恥ずかしい…れれれ練習よ!察っせバカ犬!
それと今日の体育で汗掻いたからよく洗ってもらいたいだけ!」

そういい終わると、恥ずかしそうに顔を手で覆う。
指の間からでも分かるほど顔を真っ赤にし、もじもじとしている。
少女にここまで言わせ、初めて罪悪感を覚える。
ここまで言わせて「無理」だなんて言えるはずもなく、共に入る事にした。
飲んでいたお茶のコップや急須を荒い、水切り台へ片付け、風呂の用意をする。
片手にビニール袋を持ち、玄関へ。ビニール袋はもちろんお風呂セットと一応財布。

「じゃじゃじゃぁ、竜児先に私の家のお風呂の中に先に入ってて。5分したら行くから」
「おう…いいのか?お前が先じゃなくて」
「いいのよ、そんなのどうでも。さぁ早く行った行った!」
「ところで親は大丈夫なのか?会ってすぐ『娘さんとお風呂に入るので風呂貸してください』なんて言えねぇぞ?」
「ふっ、この私にぬかりはないわ、2人とも弟連れて家族サービス中だから」
「はぁ?なんでお前は行かなかったんだ?いなかったら家族サービスのなんでもないだろ」
「海外旅行みたいだから1週間くらいかかるんだって。その間竜児に会えないのはつらいから断ったの」
「おう…嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか…じゃなくて!折角の旅行なのに断るバカがどこにいる!」

すると大河は胸を張り、親指を立てて己の首をクイクイとつつく真似をした。
どうやら『ここにいる』と伝えたいらしい。

「竜児も一週間も私に会えないのは辛いでしょ?しょ?」

『辛くねえよ』なんて言ったらきっと不機嫌になるので言わないでおいた。
というか、大河とそんなに会えないのははっきり言って耐え難い。




「…確かに辛い。だがな、親の折角の計画を踏みにじるのはこっちも気が引けるぞ」
「いいじゃん、どうせおまけみたいなものなんだし、私。アメリカなんて興味ないわ。
さぁさぁ、早く行きなさい!せいぜい裸体を私の前にさらけ出して私に興奮するがいい!」

蹴り出されるように扉から飛び出し、大河の家へと向かう。
別にわざわざ大河の家でなくても、うちでもいいんじゃないのか?と疑問を抱いたが、
コーヒーに溶けるミルクのようにその疑問は溶けていった。
要するに、『狭い』からだろう。2畳分くらいしかない風呂に2人で入るには無理がある。
湯船では絶対的に密着するわけだし、体を清めるのも後ろから丸見え。
大河の家は前のマンションほどではないがそこそこ広く、ゆとりがある、と思う。
心臓をバクバクさせ、一歩また一歩と足を進めるたびに帰りたくなる。
家では顔を軽く染めた程度であったが、本当は気絶してもおかしくないくらい同様していた。
「意外と大胆なんだな」と一人ごちる。

家に着き、大きな扉を開ける。カギは花瓶の下にあり、その存在は大河と竜児以外知らない。
広い玄関で靴を綺麗に並べる。なるほど、確かに両親はいないようだ、靴が何もない。
リビングへ続く廊下の途中にある洗面所へ向かう。そこで服をパパッと脱ぎ、カゴへ放り込む。
着替えと下着を用意し、腰にタオルを巻いて中へ入る。
昼間にも入ったが、景色は全く違う。湯気が立ち込めていて大きな湯船には湯がこれでもかと
言わんばかりに張ってある。白いタイルをヒタヒタと歩き、湯船に浸かる。もちろん下半身をよく水で流してから。

「おおう…えらい広いな、水がMOTTAINAIんじゃないか…?」
いきなりMOTTAINAI精神を発揮してきょろきょろと視線を変える。決してマーキングしているわけではない。


* * *


『はぁ〜…』多分隣の部屋に人がいたならば、その声はよく聞き取れたはず。
はっきり言って、自分でも後悔している。自分から誘ったとはいえ、一緒に風呂に入るというのは
言ってしまえば、肌を許すという意味とも取れる…かもしれない。
竜児が家を出てから3分。着替えなどの用意は自分の家にあるのでする必要はない。
冷蔵庫の中に入っていたウーロン茶をコップに並々注ぎ、一気に飲み込む。
もちろんこんなもので落ち着くはずはなく、時計を見るたび心臓が握られるような感覚に襲われる。
後1分…後30秒…インコが何かを感じ取ったのか、「タ…タ…イムオバッ!」
重い腰を上げ、扉を空けて錆びついた階段を下りる。
少し前、自分と同じような心境で竜児もここを通ったのかな、と疑問が浮かぶ。
すぐにギシアンに持ち込もうとするチャラい男とは違い、限界まで相手に
気を使って道を踏み外すことも多々。そんなあいつはきっと自分を大切にしてくれる。
だから襲うような真似はしないと信じているし、同時に襲われてもいいと考える自分もいた。

* * *

ガチャリ、と洗面所もドアノブが回る音がする。どうやら大河が来たようだ。
曇りガラスで姿は見えないが、シルエットのように影が動く。
上の服を脱ぎ、下着を外すために背中へ手を伸ばす。その仕草で緊張はピーク。
ガラガラ…と横開きのドアを開け、中へ入ってきた。
バスタオルを体に巻き、腕と脚を露出した格好であった。
見える腕と脚は叩いたら折れてしまいそうで、壊れそうで。なるほど、小学生に見えるわけだ。

「あ…あっち向いてて」

そう言われ、ガン見していた事にそこで初めて気付き、またしても罪悪感。
顔は湯気で赤いのかよく分からないが、腕でバスタオルの上から体を隠そうとしているのはわかる。




「お、おう…」

後ろを向き、大河から視線をずらす。
バシャンと勢いよく入る音がして、振り返ると真横に大河が湯船に浸かっていた。
座高の差で見える大河の肩は本当に細くて触れる事さえ憚れる。
つい胸元へ視線が行き、ジーと見つめてしまう。2年の夏の夜、水着越しだが大河の胸を見た。
もう見事ペッタンコ。哀れ乳なんて言葉よくみつけたな、と褒めてやりたいくらい納得した。
しかし、今は…確かに違う。明らかにふくよかになり、女らしい。肌はきめ細かく、そこらのタレントなんて目じゃない。

「ねぇ、りゅ…きゃー!」

竜児をふと見ると、驚いて首まで湯船まで体を沈めた。どうやらまたしてもガン見していたらしい。
自分が女だとして、相手の男から胸元を狂眼で見られているシーンを想像してみるといい。

「きも!どこみてんのよこの発情犬!今度そんな真似したら警察呼ぶから!」
「すっすまん、でも多分警察呼ぶ前に殺されるだろうけど」
「ふん、下手に出てりゃいい気になってバカみたい」
「うるせぇな。胸の大きさに去年と比べてド肝抜かれただけだ」
「大きくなったって事?見てみる?」
「おう…って見るわけねぇだろ!アホか!」

見てしまったら最期、大河を襲いかねない。今でも男の本性を理性で抑え付けているのに、
『見てみる?』なんて男のプライドをズタズタに引き裂くような事をよく言えたもんだ。

「ふーん、一応理性は保っているようね。じゃあ身体洗ってくれる?」
「…おう」

湯船から上がり、持参したスポンジで大河の身体を洗う。
触れる肌は本当に柔らかくて、温かくて。力を込めると傷が尽きそうで緊張する。
パスタオルはもちろん取っているので、生まれた時の状態。
小さな椅子に座る大河の身体は、細すぎる。いつもあんだけ食べてこんなに細いなんて
世の中間違ってると言っていた亜美の言葉に妙に納得した。
悪ノリが好きな性欲丸出しの男は、『おっと♪』なんて言って前を見ようと企むが、
竜児はそんな事は決してしない。しては大河に殺される。自分が許可をする事以外をすると
首が飛びかねないので、したくてもしない。自殺したい人は是非試すといい。
洗う範囲は上は肩、下は腰のくびれ辺りまで。それより下を見ては自分が暴走してしまうので、
危険領域としている。髪をどけた時に見えたうなじで既にグロッキー状態なのだから
暴走してもおかしくはない、というより暴走して当然。
小さなスポンジで小さな背中を幅を大きく洗っていると、




「ん…いい感じ。たまにはこういうのもいいかもね。毎日でもいいわ」
「俺は御免だ…毎日これかと思うと自分を抑え付ける自信がない」

『自分を抑え付ける』という言葉に少し嬉しくなった。
自分は貧相で、頼りなくて。それでも竜児は遠まわしにでも『恥ずかしい』と言ってくれた。
色気などは微塵にも感じ取れなくて、全く興味を抱かれてないと考えていた。
でも、違った。自分の不安を打ち砕いてくれた。些細な一言で救われたかのような心境。

「せいぜい我慢に苦しんで主人の香りを覚えるといいわ。じゃあ交代ね」
「は…俺はいい、自分で洗えるからな。何より恥ずかしい」
「いいからいいから、わたしに洗ってもらえる事を神に感謝するがいいわ」

そう言うと、いきなりこっちを振り返る。

「おわっ!こっち見るんじゃねえ、見える見える!」
「あんたが後ろ向けば済む話よ」
「くそぅ…」

素直に背を向け、小さな椅子に座る。
見えるのは恥ずかしいが、見られるのはもっと恥ずかしい。
それは大河も同じだろうが、なぜかいつもより積極的だ。迷惑半分、歓喜。
腰を下ろすのと同時、大河が身体ごとこちらを向くのが分かる。そして、
大河の柔らかい手が、自分の肩やら背中やらに伸びる。右手でゴシゴシと擦るが、
左手は自分と大河を固定するために肩に置かれたまま。
細くて、頼りない腕が背中を忙しく動き回る。腰にあたる手で思わず身もだえする。
振り向くと大河の裸が…それを思うと、一瞬で耳まで真っ赤になる。

「ふぅん、竜児の背中って以外と広いのね。筋肉もあるようだし」
「家事で結構筋肉使うからな、お前が来てから筋肉がついたような気がする」
「いい事じゃない。それなのにあんたは恩を仇で返して…いい根性してるわふんとに」
「いや、違うぞ。お前が来てから食料は倍になるわ家の掃除やらと2年前の倍になってるぞ」
「今はマンションの掃除してないでしょ。他の人住んでるんだし」

そう、竜児のアパートのすぐ隣には別の新婚夫婦が住んでいる。
一度目が合ってから、お互いカーテンは閉めきっている。洗濯の時以外は、だが。
大河が竜児の背を一通り洗い終わると、いきなり立ち上がった。




「竜児、ちょっと右向いてくれる?」

竜児は大河と背を向けていたので、右には石鹸やら鏡がある。そっちを向け、という意味だろう。
素直に身体ごと回れ右をすると、いきなり自分の右足に腰を下ろした。

「ちょ…お前、何を…?」
「ん?いつもしてるじゃない。それと見たら殺すから」

多分これは拷問…右足に裸の女が座っている。足だけならいいものの、大河は身体を全てを
自分に預けてきた。つまり、大河の背中と竜児の腹部は完全に密着していることになる。
乗ってくる大河の臀部やふとももはとても柔らかく、少し前かがみになれば
大河の全てを見てしまうことになる。完全に、とまではいかないが。
大河の肩やら背中やらうなじやらが視界の8割を埋め尽くす。

「……で、大河。お前が何がしたい。そんなに男心を弄びたいのか…?」

かろうじてそれだけ言うと、大きく鼻息を漏らした。

「ふん、その椅子小さいから乗っただけよ。何?興奮してるわけ?流石変態っ!」
「いやその理屈はおかしい。いつまでも自分の理性を保てると思ったら大間違いだぞ」
「身体洗うだけだから我慢しなさいよ、私だって…恥ずかしいんだし…」

じゃあやるなよ!という突っ込みは無しの方向で。一瞬の沈黙のあと、手にしていた
スポンジで自分の胸やら腹やら脇やらを洗い始めた。ここで竜児の息子さんが眠りから覚めた。
グググ、と龍のように起き上がり、最悪なタイミングで大河が横腹を洗おうとした時に、
コツン、と息子さんと大河の手が出会ってしまった。2人とも一瞬で石化する。

「……………」
「……………」
「………変態」
「………すまん」



しばしの沈黙を打ち破るように、大河がシャワーに手を掛け、水で石鹸を洗い落とす。
流し終わると、そのまま髪を塗らしてシャンプーをつけ、ワシャワシャと洗い始めた。

「なんだ、髪洗うならやってやるぞ?」
「いい。自分で手入れしないとスッキリしないしね。気持ちだけ受け取っとくわ」

そうか、とだけ言い、竜児も自分の髪を洗い始める。お互い密着したまま。
ふと大河の背中を見やると、小さな身体をもじもじしながら洗っている。
その背中を盗み見した罪悪感。お互い髪を洗い終え、再び湯船に浸かるために大河が立ち上がった。
「ふぁぁ」とうめき声を上げたが、なぜだかは鈍犬竜児にはわかるはずがなかった。
開放感と、喪失感で頭の中がゴチャゴチャになっているが、なんとか前を隠しつつ湯船にたどり着く。
熱い湯で汗なのか水滴なのかは分からないが、つうっと頬を水が滴り、ふと思う。
きっと、これから先もこんな事が続くだろう。
お互いを高めあい、尊敬しあい、時には求め合う事もあるだろう。
今と変わらず、罵倒される事もあるだろうが…きっと、いい未来が待ってるに違いない。
2年前は考えた事も、考える想像力もなかった。その時は、櫛枝一筋だったから。
でも今は違う。泰子が居て、インコちゃんが居て。そしてかけがえの無い者もいる。
時には喧嘩して、いがみあって。それでも並んで2人で生きていく。
それなら、別に罵倒くらいされてもいいかな。侮蔑の言葉を浴びせられようが、
俺はこいつを守っていく、養っていく。そんな未来も悪くは無い、むしろいい方だ。
もしかしたら…こんな人生を望んでいたのかもしれない。きっと、何年も前から。
櫛枝のように常に輝いていなくても、無理して笑っていなくても、
俺は、大河が好きだ。それはきっと変わらない。思いが膨れる事はあるだろうが。
ニヤニヤしていた自分に大河が一言。「気持ち悪い」


おわり




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