「あんた、ちょっと待ちなさい」
門のところで、後ろから冷え冷えとした声を掛けられた。振り返ると、玄関にお母さんが立っている。声の調子とは別に、目つきはギンという音を発しそうに鋭く、あくまで俺のことを嫌い抜いた目で見ている。それはいい。どうも嫌われているらしいというのはわかっていたから。
それはいいのだが、どうやら俺は、ちょっとまずい状況に陥っているらしかった。というのは、お母さんが肩に何か担いでいるのだ。逆光でよく分からないのだが、形からするに、俺が知っている中で一番近いのは木刀だ。
そんなわけあるか、と自分につっこむ。娘さんをくださいと頭を下げに来た男を木刀で襲う親がどこにいる。
「何でしょう」
おかあさん、とは継げなかった。スタスタと歩いてきたお母さんと、向き合う。横から竜河が
「ちょっとお母さんやめてよ」
と制する。
いやまて、やめてよって何だよ。それってまるで、これから何か嫌なことが起きそうじゃないか。心配しすぎなんだよ。娘の恋人が挨拶に来ただけだ。話し合いで解決できないことなんか、あるわけ
「馬鹿娘は黙ってな!」
その場に雷でも落ちたような一喝と同時に、びっと嫌な音がして顔の前を空気が走った。あっと思ったときには、鼻先に木刀の切っ先が突きつけられていた。とすると、アレは木刀が空気を切り裂いた音らしい。背中はいつの間にか嫌な汗でびっしょりになっている。
そんなはずはない、そんなはずはない。俺は必死に自分に言い聞かせていた。だってそうだろう。ちゃんと挨拶して、お父さんにもいい返事をもらったのだ。いくらお母さんから嫌われていても、ここで暴力沙汰という展開は無いはずだ。
自分にそう信じさせるために、俺は木刀の切っ先越しにお母さんを見つめながら、今日の出来事を反芻していた。記憶に間違いがあった場合、さっきの食事が人生最後の食事になるかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇
下手は打っていないはずだ。
お母さんの手料理はおいしかったし、お父さんとも話は(それなりに)弾んだし、やっちゃんさん(たぶん竜河の父方のおばさん。おばあちゃんは留守だった)も、終始ニコニコしていた。
もちろん、大盛り上がりとは行かなかった。何しろ恋人の家にお邪魔するのも初めてなら、結婚を願い出るのも初めてだ。お父さんは予備知識を遙かに超えて怖い顔だったし、お母さんは終始横で不機嫌そうにしているし、内心ガクブルものだった。
それでも、ちゃんと挨拶して、ちゃんと「娘さんをください」とお願いできた。
そして、お父さんは「娘をよろしく頼むよ」と言ってくれたのだ。目が潤んでいたのは、たぶん見間違いではない。
だから、やっとこれで結婚できると思ったのだ…
◇ ◇ ◇ ◇
「私はね、あんたのこと、認めたわけじゃないのよ」
お母さんは俺をねめつけながら、教師が手に負えない落ちこぼれの生徒に説教をするような嫌そうな口ぶりで話を続ける。
「うちの竜河にボーイフレンドがいることぐらい、前から知ってたわよ。どうやらそれがいけ好かない奴の血筋だってことも知ってた。それでも別に口をはさまなかった。あたりまえよ。いちいち娘の彼氏選びまで口を出すほど、こちとら暇じゃないのよ」
ごくり、と唾を飲む音がお母さんに聞こえたのではないか。それが妙に恐ろしかった。
うちのオヤジや母方の伯母さんと、竜河のお母さんの間で何かあったらしいというのは、事前に竜河から聞いている。だが、オヤジもオフクロも何も教えてくれなかった。なんとなくだが、二人とも、かなりびびっている様子だった。
アメリカに居る伯母さんに聞いてておきたかったのだが、タイミングの悪いことに、今は連絡が取れない。
「でもね、結婚となると話は別よ。あんたのオヤジ、狩野屋の養子は、あのクソ縁起の悪い黒猫男だって言うじゃない。ということは、なんだ、あんたはうちの娘をスーパーマーケットに閉じ込めて不運な人生送らせるつもりなんだ」
「お母さん、僕は」
「黙れ」
ぴしゃり、と低い声で命令された。蛇に睨まれた蛙という言葉が頭をよぎる。ふと、明日その辺に自分の死体が転がっていても違和感がないな、と他人事のように思った。
「わたしはね、あんたなんかにうちの娘をやりたくない。でもね」
と、苦痛に耐えるように顔を歪めて、お母さんが言葉を切る。
「でもね、うちの大黒柱は竜児なのよ。些細な話ならともかく、大事なことは竜児がヨシといえばヨシ。ダメと言えばダメ。それがうちの掟なのよ」
だから、と言葉を継いで
「竜児がいいって言ったんだ。嫁にくれてやる」
低い声で、少し悲しそうな調子だった。
「必ず、幸せに」
「あんたの話なんか聞いてないんだよアンポンタン!」
急に大きな声を出されて身がすくむ。
「いいかい、その軽そうなおつむによく叩き込んでおきな。くれてやるったって、猫の子をくれてやるんじゃないんだ。その子は世間知らずの馬鹿な娘だけど、私と竜児の間にできた、たった一人の子供なんだよ。できたって分かった時には二人して泣いて喜んだんだよ。
何日も何日も悩んで名前を付けたんだよ。 贅沢こそさせてやれなかったけど、二人で大事に育ててきた一人娘なんだ。粗末にするんじゃないよ」
「はいっ」
そう、返事をするのがやっとだった。
「泣かすようなことがあったら、殺すからね。言葉の綾だなんて思ったらあの世で後悔するよ」
そう言うと、ピクリとも動かなかった切っ先をようやく俺の鼻先から離してくれた。右肩に担いで胸を反り返らせ、顎を上向けてながら傲岸な目つきで俺を下から見下すと、ふんっ、と鼻から息を吐いて玄関へと戻って行く。
ピシャリと扉が閉められて、ようやく息をつめていたことを思い出す。
と、同時に玄関のなかから、うえーんと泣き声が上がった。
「りゅーじぃーっ!」
「おお、おお、よしよし。わかってるから。わかってるから」
「えーーーーーん!」
絵に描いたような茶番劇に声を失う。
「ごめん、うちの家族、変でしょ」
はっと気づいた。そうだ、竜河も一緒だった。
「いや、その。変わっているけど、変じゃないよ」
あわてて、とりつくろうが、竜河はぷっと吹き出す。
「同じだよ」
◇ ◇ ◇ ◇
そういうわけで、竜河は今、俺と、俺の両親に囲まれて、忙しいお嫁さん生活を送っている。両親が年をとれば、俺と二人で店を切り盛りすることになるだろう。大丈夫。心配ないさ。
あの、とてつもなく運の悪いオヤジと、とてつもなく要領の悪いオフクロのせいで何度も経営危機に陥った店を、子どもの頃から共に立て直して来たのだ。女の子にモテそうなことには縁はなかったが、俺の経営術は現場仕込みだ。竜河が横にいてくれれば、怖いものなんかない。
きっとうまくいくさ。
そういえば、高須の家ではキジトラの仔猫を一匹飼い始めたらしい。まだ、名前でもめているとか。
(おしまい)
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