逢坂大河は朝から不機嫌だった。
新学期早々、礼拝堂での朝の拝礼をさぼって、学校の敷地内にある花壇の中をうろついていた。
別に大河に花を愛でる趣味があったわけではない。
単に人が来ないからと言う単純な理由でそこに居たに過ぎない。
道端の小石を蹴り飛ばし、その石が思わぬ方向へ飛んでしまったことが大河の不機嫌さに拍車をかけた。
「ちっ!」
女の子にあるまじき舌打ちをもらすと、大河は花壇のそばにあった水まき様のじょうろをおもいきり蹴飛ばした。
じょうろは派手な音を立てて、ひな壇に並んでいた植木鉢に当り、陶器の割れる音と混ざり合った。
大河が不機嫌になる理由はふたつあった。
ひとつはひどく空腹なこと。
なにしろ夕食、朝食と2食抜かしているのだ。食べ盛りの身にとってそれはひどい拷問に等しかった。
そしてもうひとつはまたやりあってしまったことだ。
誰とやりあったのかと言うと大河の父の再婚相手。大河から見れば義理の母親にあたる女性だった。
実の両親の離婚によって大河は父方に引き取られたのだが、これとて大河が積極的に選択したわけではない。
離婚時点で母は既に新しいパートナーが決まっており、そんな男と暮らすのはまっぴらだと大河が主張したせいである。
大河の母はあっさりと手を引き、父親と大河だけの生活が始まったのだが、それは長続きしなかった。
すぐに大河の父は新しい女性を家に迎え入れた。
事業の都合だとか、耳障りのいい理由を並べ立てる父親に「好きにすれば」と素っ気無く大河は答えていた。
最初から上手く行かなかったわけじゃない。
大河なりに努力した部分もある。
相手も歩み寄ろうとした。
でも、最初からあったわずかなズレは時が経てば経つほどその綻びが大きくなり、もはや修復不可能なほど広がっていた。
もはや、顔を合わせれば耳をふさぎたくなる様な言葉の応酬が当たり前になり、お互い相手と極力、接触しないように努めていた。
大河の父もそのパートナーも仕事が忙しいのか、家を開けることが多く、逢坂家の家事労働全般は週に数回やって来るハウスキーパーが掃除や、食事などを用意していた。
昨日も、本来ならハウスキーパーが来て、大河の夕食を用意するはずだった。
それが、予定変更で突然帰宅した大河の父とパートナーはハウスキーパーを帰してしまったのだ。
あんな女の作った物なんか、食べてやるもんかと、大河は夕食の席にも出なかった。
いや、例え出たとしても大河の分は食卓には並んでいなかっただろう。
いつの頃からか、作った食事に手をつけない大河に業を煮やして、大河の世話を焼くのを一切、放棄していたのだ。
大河がそれでも飢え死にしなかったのは週4回、来てくれるハウスキーパーさんが居てくれたからこそである。
不幸中の幸いというべきか、大河の父は娘に愛情を注ぐ代わりに、その不足分を金銭であがなうと言う手段を構築していた。
そのため大河の持ち歩いている財布の中身はクラスメートに比べて、桁の違うお札がいつも入っていた。
だから、大河は父親がパートナーと一緒に帰って来る日はコンビ二で食料を調達して来ていたのだ。
昨日はその予定が狂ったせいで空腹のまま、大河は登校して来ていた。



・・・朝のお祈りか・・・祈って願いが叶うなら、私は何度でもそうしてやる。
礼拝堂の鐘の音色を聴きながら大河は音のする方角を鋭い視線でにらみつけた。
「ふん」
一声、吐き出すと大河は花壇脇にあるレンガに腰を下ろし、登校途中に調達してきた朝食を食べ始めた。
冷え切ったおにぎりと生ぬるいお茶。
・・・おいしくない。
半分、食べたところで大河は食べる手を止めてしまった。
お腹空いてるんだから、おいしいはずなのに、大河はそう思った。
なんでおいしくないんだろ・・・あれ?
不意に込み上げて来た感情に、大河は堪えきれず小さく嗚咽を漏らした。
そっと目じりに手を伸ばし、わずかに濡れる大河の指先。
その時、ツキンと大河はお腹に痛みを感じた・・・。
まただ・・・。
数日前から続く体の不調が大河を精神を不均衡にした。
泣きたくなんか無いのに、そう思っても抑え切れず、そのままの姿勢で大河はじっと動けないでいた。

がさ・・・

急にした物音に大河は身を堅くした。
音のした方を見ると大河と同じ制服を来た少女がひとり、大河の方を見ていた。
・・・見られた?
「何?」
立ち上がり、尖った声で誰何する大河。
「ごめんなさい、邪魔するつもりはなかったの」
それから少女は大河の足元にあるコンビニの袋に気が付いた。
「今から、朝ごはん?」
「そうよ、いけない」
「逢坂・・・大河さんよね」
「誰よ、あんた?」
「う〜ん。一月くらいになるのにクラスメートの顔をも覚えてくれないなんて、ちょっと悲しいかも」
と、その少女は泣き真似まで始めた。
「バカじゃないの」
遠慮会釈も無い大河の声に傷つく風も見せず、少女は笑顔を作った。
既に優等生から正反対に位置していた大河の生活態度、それでも成績は良く、欠席もほとんど大河はしていなかった。
単に、そう言った点を親に連絡され、あれこれ言われるのががまんならなくて、大河は頑張っているに過ぎなかった。
従って、それ以外で大河は自分を飾り立てたり、良く見せようなんてこれっぽっちも考えていなかった。
だから、集団生活の中で大河は孤立していた。必要を感じなかったからクラスメートの名前も顔も覚えようとはしなかったのだ。
「あんたもさぼったの?」
「苦手なんだ、あれ」
カトリック系の学校へ通っているくせに妙な事を言うやつ。そう思いながらも大河は警告だけはしておこうと思った。
「そう、でもひとつだけ忠告しておいてあげる」
「何かな?」
「私にこれ以上、近づくな」
「どうして?」
大河を取り巻く噂は芳しい物ではなかった。
その大半は憶測と伝聞で、人から人へと伝わる過程でおもしろおかしく捻じ曲げられていった。
そんな大河に近づこうなんて考えるのは無謀以外の何物でもなかった。
「とにかく平穏無事に過ごしたいのならね」
大河はそれだけ言い捨てると、来た道を引き返した。




帰りのホームルームも終わり、下校しようと大河はかばんを手にした。
その時、今朝、大河が会った少女が小さく手を振っているのが目に付いた。
大河はそれを無視するように足早に教室を出た。
・・・変なやつ。
帰りの電車の中で流れる景色を見ながら大河はぼんやりとそんなことを考えていた。

自宅への最寄り駅の改札を通り、高台にある家へ帰ろうと坂道を歩いていた大河は急に違和感を感じた。
その直後、さっきからずっと続いていたお腹の不快感が急に酷くなり、大河はその場にうずくまってしまった。
・・・何、これ?
初めての経験に大河は訳がわからず、表情を苦しげにした。
そして自分の足元を見て、白いハイソックスが赤くにじんでいるのを見つけ驚愕した。
出血してる・・・怪我したの私・・・あ、れ?・・・!!。
その血の源流が身体の中心部から出ていることに大河はその時、気が付いた。
スカートの中に差し入れた手に付いた赤いぬめり・・・。
訳が分からず、その場で大河は震えが酷くならない様にぎゅっと両手で身体を押さえつけていた。


身体中が気だるいまま、大河は夜明けを迎えた。
微熱感がつきまとい、気分がすっきりしなかった。
昨日はあれから汚れてしまった下着を見つからないように処分し、浴室で身体に付いた血を洗い流そうとシャワーを浴び続けた。
そしてそのまま、夕食もとらず倒れるように眠ってしまった。
朝、起きてからも大河は自分が変な病気にでもかかってしまったのではないかと酷く、不安になった。
よっぽど家庭医学大全集でも見てみようと思ったが、何が書いてあるのか怖くなり、結局、見ないまま登校した。
授業中も昨日から続く、お腹の痛みに悩まされ続けた。
「逢坂」
そして3時間目の国語の授業で大河は指名された。
大河は椅子から立ち上がろうとして失敗し、そのまま前のめりに倒れた。
教室中に広がる悲鳴も喧騒も大河の耳には届いていなかった。




目を覚ました大河が最初に見たのは白い天井だった。
安っぽいパイプベッドにここが保健室であることを知らせていた。
あれ?・・・そうか私、教室で倒れて・・・。
むくりと大河は起き上がった。
その物音にベッド脇のカーテンが開いて修道衣を来た養護教諭が顔を見せた。
「気分はどう?」
ふるふると大河は頭を振った。
「貧血ね。もう少し休んで行くといいわ。何か飲める?」
大河は大人しく首をたてに動かした。
「ちょっと待ってね」
養護教諭はそう言うと、手早くホットココアを造り、大河の手にカップを手渡した。
「熱いから気をつけてね」
大河はカップへふうふうと息を吹きかけ、中身を口に含んだ。
温かみと甘さが大河にちょっぴり安らぎを与えた。
「初めて・・・よね。逢坂さんは?」
大河は何のことか分からず、養護教諭をまじまじと見つめた。
「ちょっと汚れちゃったみたいなんで、洗って、今乾かしてるから・・・ちょっとサイズが合うの無くてごめんなさいね」
言われて大河は今穿いている下着が自分のものではないことに気が付いた。
あれを見られた・・・そう思った瞬間、大河は羞恥心を感じ、真っ赤になった。
目の前の養護教諭に殺意すら覚え、手近な武器を物色しようと視線を左右に動かした。
あれだ・・・と大河が手ごろな武器に目をつけた時、養護教諭が大河にとって意外な台詞を言った。
「おめでとう」
・・・めでたい?
ポカンとする大河。
あらあらと言いながら養護教諭は保健体育で習ったでしょ・・・と笑った。
大河がさらに混乱する素振りを見せると、「まさか、逢坂さん・・・何も知らないの?」とびっくりした様子で大河の身に起きた一連の出来事を説明した。
「・・・だからね。これは赤ちゃんを産むための準備が出来ましたよって言う合図なの。今日から逢坂さんは子供じゃなくて本当のレディになったのよ」
・・・だから、おめでとう。
養護教諭は軽く大河の肩を抱いて大河の顔を覗き込んで付け加えた。
「あなたと未来のハズバンドに祝福を」




大河は自分が余りにも無知だったことに自分であきれていた。
そう言えば・・・そんなような事をやっていた授業があったなと、思い返していた。
その時、大河はクラスメートがきゃあきゃあ言うのをうるさいと思いながら寝ていたのだった。
これから、大事なことはちゃんと聞いておこう・・・逢坂大河は今日、人生でひとつ教訓を学んだ。
・・・ハズバンドね。
さっきの台詞が蘇る
大河はまったく想像できなかった。
・・・いつか、私も好きな人が出来て・・・結婚して・・・子供を産むのか・・・。
遠い未来予想図。

学校帰りのドラッグストア。
・・・どれがいいんだろう?
多すぎる種類に圧倒されながら、大河はふと思った。
・・・ちょっと相談してみよう。
昨日、手を振ってくれたクラスメートに・・・
・・・名前、何て言うんだっけ?

その日、生まれて初めて大河は生理用品を買った。







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