明けて土曜日の朝。文化祭当日。
竜児はアパートの前でじりじりしながら大河を待っていた。木曜日に馬鹿メガネのせいで大河と喧嘩みたいになってしまった。その後フォローの電話をかけているが、携帯を取ってくれない。メールも返事が無い。大河は今日は一緒に登校できると言っていたのに、
いつもの時間になっても、まだ現れない。携帯に電話をしてもやっぱり出ない。
昨日は作業が終わった後、3−A挙げて3−Bに手伝いに行ってみたのだが、驚いたことにドアを閉めたまま「関係者以外立ち入り禁止」の張り紙がしてあった。ノックをして声をかけると、ちょっとだけ扉があいて、隙間から目が一つ覗いた。かわいくない。
「入れないよ高須、入れないよ」
「おう、能登。手伝いに来たぞ。共同展示だから遠慮するな」
「だめだよ、明日は本番だからね。俺たちはライバルでしょ。明日おいでよ」
「何言ってやがる、お前田口達いれてるだろ」
「田口と谷本は味方だよ。でも高須は敵。あと、高須、最近言葉遣いが荒いよ」
「なんだと!」
目を狂おしく光らせて能登を睨みつける。振り返ってそんなことないよな!と3−Aの連中に同意を求めるが、嫌な笑いを浮かべて全員黙り込んだままだ。
「畜生、じゃ、いいから大河と話をさせろ」
ひそひそ声で能登に言うのだが、それこそ能登はぶるぶると首を振り
「タイガー帰っちゃったよ!」
扉をぴしゃりと閉めたのだ。いったい中で何が起きているのか………………そんなことが、昨日あった。
回想を止め、爽やかな青空の下、ボロアパートの前でため息をつく。
「しかたねぇ、行くか」
いつもの時間から5分待っても大河は現れなかった。学校に向かって竜児は駆け出す。歩いても始業20分前につくように時間を決めているから走る必要は無いのだが、いつもと違うタイムスケジュールで動くことを竜児の几帳面さが許さない。
幸い、空気はひんやりと冷たく、空はあくまでも高い。走ってもそれほど不愉快ではない。今日は絶好の文化祭日和だ。
◇ ◇ ◇ ◇
「おう、おはよう」
「おはよう。高須、3−B見た?」
「いや、昨日入れてくれなかったんだよ」
「ちょっと見て来いよ」
田口がニヤニヤ笑いながら意味深に薦める。なんだよ、と暗幕の向こうに積んである机の山の間にかばんを放り込み、後ろの扉を出て3−Bまで歩く。
「なんじゃこりゃっ!」
廊下で大声を出す竜児を、扉から首を出して3−Aの野郎共が冷やかす。
廊下の3−B側の窓には大きな横断幕が張ってあり、黒々とした墨でスローガンらしき文句が書いてあった。
『それが豊かさってものなのよ!』
ランチミーティングのときに大河が竜児に言い放ったセリフである。ひでぇ、笑いものにしやがって。横断幕を切り裂きそうな鋭利な視線を泳がせていると、扉が開いて、書記女史が半身をひょいっと突き出す。
「高須君、おはよう。どう?うちの書道部の作品。素敵でしょ」
「なんだよこれ、名誉毀損だぞ」
「怒んない怒んない!あとで案内してあげるね!」
そう笑ってウィンクを飛ばすとひっこんで扉をぴしゃりと閉じた。今年の文化祭は、よくウィンクを飛ばされる。
「畜生、なんて奴らだ」
ぶつぶつ言いながら戻ってきた竜児に、クラスメイトは
「高須、隣のクラスでも大活躍だな」
「あーあ、3−A、3−Bは高須夫妻にかき回されっぱなしだったぜ」
と、追い討ちをかける。最近竜児にいじられてばかりの木下も、ここぞとばかりにはやし立てる。畜生。
危険な目つきでクラスメイトの調理方法を考えているようにしか見えない竜児に、クラスメイトは適度な距離をとって笑いながら知らんぷり。そんなこんなでちょっとだけ気分の悪い朝を一人で呪っているときだった。
「高須、ちょっと話があるんだけど、いい?」
歩み寄ってきた村瀬が小さな声で話しかける。深刻、と言うわけでもないが、少し困ったような笑みを浮かべている。
「おう、どうした。北村か?」
「いや、そうじゃないんだけど」
「これからSHRの前にミーティングだろう」
「みんなには話を通してあるよ。うちのクラスは展示と説明だけだから大丈夫だし。な、来てくれ」
妙にしつこい村瀬に竜児は渋々ついて教室を出た。ほかの連中も少しおかしい。事前に何か知っていたのか、見てみぬ振りと言うか、お、ついにと言うか。微妙な空気を背中に感じる。
「何の用だよ」
「逢坂さんと喧嘩しているんだろ。仲直りしてくれないか?」
廊下を歩きながら、村瀬が微笑んで言う。
「そんなことかよ。ほっといてくれ」
憮然として竜児は突き放す。俺はお前のことには首を突っ込まなかったぞ。しかし、村瀬は
「それがそうもいかないんだよ。3−Bがちょっと困ってる」
と、本当に困っている様子。3−Bが困っていると聞いて、えっ、と竜児が驚く。
「まさか暴れて展示をめちゃめちゃにしたとかじゃないだろうな」
「いや、そうじゃなくて」
と、村瀬は苦笑。竜児の顔は見ないで前を向いて歩きながら話す。
「ほら、彼女。逢坂さんのこと、ムードメーカーだって言ってたろ?そのムードメーカーがイライラしているからクラスが油が切れたみたいにギクシャクしてるんだよ」
「そんなことかよ」
適当に返事をしながら、竜児の心には小さな疑問が浮かぶ。いま、『彼女』って言ったよな。先週は『あっち』って言ってなかったか。考えすぎだろうか。何でも恋愛話に結び付けたがる、噂話好きの女子みたいになっていないだろうか。
「冷たい事言うなよ。それに展示被害が出てる」
「やっぱり暴れたんじゃないか」
「そうじゃないって。そうじゃないんだけど…昨日だけで、つまづいてパネルを倒したのが2回。書き損じ5回、暗幕を落としたのが」
「いや、もういい。なんというか、すまん。書記女史に謝っておいてくれ」
「謝らなくていいよ」
村瀬は笑いながら、話を継ぐ。
「思い余って櫛枝さんにも相談してみたんだ」
「櫛枝…」
竜児が大河の前に現れるまで大橋高校でナンバーワン、いやオンリーワン虎使いの名をほしいままにしていた櫛枝実乃梨は、今はクラスが別なので最近ではあまり顔をあわせない。が、竜児、大河双方と仲がいい。
「『犬も食わない夫婦喧嘩に首を突っ込むとは生徒会のグルメっぷりには敵わないぜ』って笑われたよ」
「あいつ」
村瀬が笑いながら、竜児を連れて階段を上る。屋上へと出る階段は今日は使う人もいないだろう。
「な、だから逢坂さんと仲直りしてくれないか。俺たちが口を挟むのも変もしれないけど、もとはといえば生徒会が原因だ。それに、共同展示を楽しくやりたい。最後の文化祭じゃないか。仲直りしてくれよ」
その階段の先にある踊り場を見上げて、ようやく竜児は村瀬と書記女史の意図を理解する。踊り場には、困ったように笑う書記女史と、ちんまりした女子が立っていた。脚を開いて腕を組み、ぷいっと膨れて横を向いているくせに、白い頬、形のいいあごのライン、
けぶるような髪が、嫌になるほど絵になる。大河。まったく頭にくる。
「高須君、ごめんね」
「おう、いや。いいんだが」
大河が迷惑をかけちまったな、という一言をあわてて飲み込む。そんなことを言ったら、それこそ大河の逆鱗に触れる。書記女史にしたって、なだめすかしして大河をここに連れてきたのだろう。ここでちゃぶ台をひっくり返すようなまねはしたくない。
しかし、それにしても
「なによ」
どこから手を付ければいいものか。
不機嫌な大河をなだめる方法は、実のところ竜児も一つしか知らない。成り行きに任せることだ。竜児が大河とうまく行ったのは、暴虐の嵐に耐えながら辛抱強く待つことが出来たからだ。いちど機嫌を損ねたが最後、なだめることも、すかすことも、謝ることも、
言い訳することも、怒ることも、何一つ通用しない。退かず、媚びず、省みないのが大河だ。仲直りしよう、で仲直りしてくれるようなら虎とは呼ばれない。
根は優しくていい奴なんだが。
「大河、すまなかったな。機嫌直してくれないか」
とりあえずアプローチしてみるが、
「何よ、私に黙ってこそこそしちゃって」
取り付く島がない。
「いや、あれはだな」
言い訳をする竜児を、村瀬が制する。
「逢坂さん、聞いてくれ。あれは生徒会の内輪の問題だったんだ。俺たちの不手際を、高須は助けてくれたんだよ。だから高須を許してくれないか?俺たちならいくら怒られたっていいから」
「そんなの問題じゃない!」
と、大河は村瀬を無視して竜児を睨みつける。
「どうしてあんたは北村君が大変だって教えてくれなかったのよ!」
ああ、そうだろうな、そこだよな、と竜児は思う。別にやましい思惑があって隠していたわけじゃない。だが、北村のことを黙っていたのはまずかったのだろう。でも、だからって何が出来たろうか。
「なあ、大河。分かってくれ。俺はお前を巻き込みたくなかったんだよ」
竜児のこの言葉は嘘ではない。下手をすれば、暴力沙汰だと思っていた。そのときには、全部一人で背負うつもりだった。田口も、谷本も、予定外の参加になった横川も、生徒会の誰も巻き込まず、一人で背負い込むつもりだった。大河を巻き込むなんてことができたわけがない。
それは、暴れられると困るなんてことでは、ちっともなくて…
「子ども扱いするなっ!」
大河が叫ぶ。星を散らしたようなきれいな瞳は涙に潤み、声は悔しさに染まっている。
「なんで子ども扱いするのよ!あんたは私をなんだと思ってるのよ!」
噛み付くように叫ぶ大河に竜児は何か言おうとするが、
「逢坂さん。いい格好、させてあげようよ」
後ろから書記女史が、ぽん、と大河の両肩に手を置いた。大河が、くっと唇を噛む。
「高須君、男の子だもん。格好つけたかったのよ」
優しい微笑を浮かべて大河の後ろから語りかける書記女史を見て、きれいな声だな、と他人事のように思った。心を優しく包んでくれるようなきれいな声だ。脈絡もなく、村瀬はこの声が好きだろうな、と思った。
「男の子だからさ、逢坂さんを揉め事に巻き込みたくなかったのよ。男の子はみんなそう。村瀬君だってそう。北村君だってそう。子ども扱いなんかじゃないよ。いっつも格好つけちゃって。だからさ、格好つけさせてあげよう。好きな子には格好つけたいのよ。男の子は」
説得が効いたのかどうかは分からない。だが、ついさっきまで叫んでいた大河は、今は体の力を抜いてうなだれたまま黙って居る。村瀬と書記女史は目配せすると、
「私たちは行くね。お願い、仲なおりして。みんなそう願ってる。楽しい文化祭にしよう」
「高須、待ってるよ。SHR遅れるな」
そう言って、二人とも階段を下りていった。
残された竜児は、うつむいて、たぶん泣いている大河と二人っきりになる。大河のつむじを見ながら、こんな風に泣くのを見るのは久しぶりか、と思う。つむじはいつも見ているのだが。
「大河、泣かせちまったな。すまねぇ」
少し、間が空く。がやがや、たばばたと廊下の方から音がする。大河は涙混じりの声で
「何よ。あんた本当に格好つけたかったの?」
ぼそっと、一言。
竜児はため息をつく。自分が格好を付けてたかって?よくわからない。別にいい格好をしたかったわけじゃない。ただ、大河を巻き込みたくなかった。だって、大河が傷付くかもしれなかったら。これは格好を付けてたんだろうか。違うのだろうか。
大河にちゃんと話した方が良かったのか。
一人で決めるのは、いい格好をしているということなのだろうか。
「そうかもしれねぇ。たぶん、そうなんだろう」
「馬鹿なんだから。竜児の馬鹿。格好付け犬。私の気持ちも知らないで」
ののしって、涙を散らしながらしがみついてくる大河を抱きしめる。
まもなく始まる文化祭の期待に、学校のどこもかしこも浮き足立ってざわついている。その喧騒から取り残されたような誰も居ない踊り場。二人黙ったまま、ただ、抱きしめあう。文化祭のことも忘れて。大河は竜児の胸の中で、時折鼻をすすっている。
仲直りするときはいつもこうだ。
子どもみたいな奴。
「ねぇ、竜児」
「何だ」
「北村君のこと、私に教えたくなかったの?」
なんとなく、大河の言いたいことは分かる。大河は北村の事が好きだった。今は竜児の事を好きだと言ってくれる。そして竜児は大河が好きだ。
「そうじゃねぇ。そうじゃねえけど」
「…なに?」
「俺は、ひょっとしたら喧嘩になるかも知れねぇと思ってた」
腕の中の大河が、ぴくりと体を硬くする。
「そんなことにはしたくなかったけど、でも、ひょっとしたら北村と殴り合いになるかもって思ってた。そのときには、その場にいる誰も巻き込まずにやろうって思ってた。北村と、俺と二人で」
竜児は天井を仰ぎ、深く息を吸い込む。
「だから、お前にその場に居てほしくなかったんだ」
「私が暴れるから?」
「馬鹿野郎、そうじゃねぇ。そうじゃねぇよ」
腕の中の大河を荒々しく揺する。なぜ、わかってくれないのか、と。
「お前に見てほしくなかったんだよ。そんな俺も、そんな北村も」
お前には見せたくなかったんだよ。竜児がつぶやいて、そして二人とも口をつぐむ。喧騒が遠くに聞こえる。やがて腕の中の大河が小さく、
「うん」
と、一言。
もうすぐ高校生活最後の文化祭が始まる。
◇ ◇ ◇ ◇
SHRのあと、全員体育館に集合。校長の話やら何事も無かったように無駄にポジティブな生徒会長の挨拶を聞いた後、教室に再集合した。9時30分。開門まで30分だ。
「よし、そろそろやるか」
今週後半、竜児に仕事をまかせっきりだった村瀬が、展示の終わった部屋でクラスメイトを見回す。机を教室の後ろに重ねてあるので、広々としている。
「おう。村瀬、見回りはいいのか」
「ああ。北村はやってるけどね。ほったらかすことにした。生徒会は、あまり生徒を過保護にするべきじゃない。もともと俺と彼女はクラス展示に専念していいって北村に言われてたんだ。2年と1年に見回りは任せて、俺たちは文化祭を楽しむよ」
「そうしろそうしろ」
俺たち、ね。と竜児は心の中で独りごちる。村瀬、お前にとって、この2週間はどうだった。
「よし、少しばかり早いけど、俺たちのクラスの文化祭を始めよう。みんなそろってるな。一本締めやるよ」
そうやって全員を見回す。みんなきらきらした目で村瀬を見ている。
「皆さん、お手を拝借っ。よーーーーーっ!」
パン、と全員で一本締めを決める。教室に拍手が満ち溢れる。隣のクラスからも拍手が聞こえてきた。
「お隣さんも始めたらしいな」
「もういいんじゃないか」
田口が人のよさそうな笑みを浮かべる。
「ああ、じゃぁお迎えに行ってくるよ」
そう言って村瀬が教室から出て行った。
文化祭が開催されたら、互いのリーダーを招待して展示の内容を説明しようと3−Bと約束していた。受験を目前に控えて、2週間とはいえ朝から晩まで文化祭の準備漬けだったのだ。リーダーにはそれくらいの特典が与えられてもいい。ああ、いいとも。
「おう、そうだ。湯川、ミスコンの準備どうなんだ?まだ手伝えること残ってるか?」
そうそう、とみんなの注目を受けて
「大丈夫!準備オッケーよ!すっぴんでやるつもりだったけど、みんなお化粧協力してくれるって言うから」
「女子軍団の力を見せるときよ!」
「おーっ」
国立理系選抜のたった6人しかいない女子は仲がいい。今日は塾も無いだろうから、存分に結束を高めるだろう。
「ばっちりウケを狙うから、みんな楽しみにしててね!」
「コスチュームどうするんだよ?」
「内緒よ内緒!」
「まだ内緒かよっ!」
わいのわいのと騒いでいるうちに、村瀬が
「おい、お連れしたぞ」
と、教室に戻ってきた。
続いて書記女史を先頭に大河やら能登やらが入ってくる。能登、レディーから先に通せよ。迎え入れる3−Aから拍手が沸き起こる。村瀬が代表して歓迎のスピーチを行った。
「えー、2週間の短い間でしたが、3−Bと行った共同作業は実のりあるものでした。3−Bの知恵や力を借りることで、我々の展示をよく出来たことはみんな実感していると思います。本当にありがとうございました。今日はささやかですが我々のリーダーから、
3−Bのリーダーの皆さんにお礼方々、展示のご案内をさせていただきます」
盛大な拍手に混じって
「スピーチの練習してきやがったな」
「格好つけやがって!」
揶揄が飛び交い、教室が楽しげな笑いに包まれる。3−Bの面々は、ちょっとだけフォーマルな出迎えのスピーチに気恥ずかしそうに、それでも嬉しそうな笑みを浮かべている。
「よし、じゃ説明を始めよう。みんな手短にな。トップバッターは事実上の総大将だった高須だ」
「おう、俺が総大将?やめろよ」
「いやいや、高須だよ」
「まったく高須大将殿には振り回されっぱなしだったよ!」
顔を鬼のように真っ赤にして竜児が説明を始める。
「俺たち3−Aの『理系の世界』のもう一つのテーマは『つながり』だ。この先進む道は専門になるけど、それは全部、今の勉強とも、別の道に進んだ奴らの研究ともつながってるんだ。だから、この展示ではそのつながりを強調してみた。たとえばこの説明」
と、貼り出している紙の一枚を示す。
「スポーツ医学には、予防の分野もある。体を痛めたりしないようにスポーツのフォームを医学的な観点で見るんだけど、そのときコンピュータを使うんだ。この紙には体を痛めるってことはどういうことか、フォームを改善すると何がいいのか書いてる。
で、関連するコンピュータの説明も別の班の説明で読めるってわけだ」
へー、と感心したような声が漏れてきて、竜児は上機嫌。だが、
「竜児、あんた何普通にしゃべってんのよ。村瀬君を見習って少しは練習しようとか思わなかったわけ?」
まったくもう、と容赦の無い大河に、周囲がたまりかねたように笑い出す。
「何だよお前、くそ。みんな笑いやがって。あー、次は青の4番」
こんこん、と展示の紙に張った矢印をたたいて
「あれだ」
と教室の一角を指差す。青い紙はコンピュータ班の色で、その中に大きく4と書いた紙が目に入る。
「歩いて説明をたどるのね」
「おもしろい!ゲームみたい」
「お客さん歩かせるって、どういうつもりかしら」
「うちの展示全否定しやがって」
幕間の夫婦漫才に教室が笑いに包まれる。これがどつき漫才になると教室が阿鼻叫喚の地獄に包まれるが、今日の大河はその心配はなさそうだ。口は悪いが、表情は上機嫌そのもの。その後、コンピュータ班、物理班と一枚ずつ説明する間も、
大河はちゃちゃを入れることなく竜児の横で黙って聞いていた。ようするに、竜児と話がしたかったのだろう。
最後の数学班の展示は、3−Bの面々から高い評価を得た。
「きれいねぇ」
「どうやってこのイラスト描いたの?」
「竹ひごと凧糸で模型を作って、上から平原がスプレーガンで噴いたんだよ」
「へー」
内容ではなくイラストに注目に集まっているために木下は少し傷ついているようだが、数学で女子の関心を引こうというのも虫のいい話だ。だいたい本来なら、平原の提案ではイラストを最初に描いてから文字を入れるはずだったのだ。
それを木下がびびって「字を間違えずに書くなんてできない!」なんて言い出すものだから、順序が逆になってしまった。おかげで黒い文字の上に絵の具の色が散っている。小心者め。
木下は晴れの舞台で精一杯頑張って説明をするのだが、
「木下、お前吉田さんばかり見て説明するのはよせ」
「吉田さんに失礼だぞ」
などといじられて、グダグダになって行く。
◇ ◇ ◇ ◇
秘密のベールに包まれた3−Bの展示が、ついに明らかにされるときが来た。そしてその内容は、あんまりといえばあんまりだった。廊下に貼り出されたスローガン『それが豊かさって言うものなのよ!』が、教室の中のすべての展示の結びの句の後に、
毛筆で書き加えられていたのだ。おまけに入り口にはどういうつもりか『それが豊かさって言うものなのよ!』ステッカーがおいてあり、「ご自由にお取りください」などと添えられている。誰がこんなもの欲しがるんだよ。
「吉田さんのアイデアなの」
「ステッカーください!」
「木下、夜道に気をつけろよ」
くすくす笑いに包まれて、竜児だけなんだか割り切れない気分である。
「みんな覚えていると思うけれど、『それが豊かさって言うものなのよ』は、逢坂さんが考えた言葉です。この考えって、文系には大事だと思うのよね。だから、あのあと展示を見直して、全部この結論につながるように書き換えたの。ちょっと強引なのもあったけど」
ぺろっと舌を出して笑う書記女史の横で
「竜児、そのえぐい目をちゃんと見開いて私たちの展示を見ておきなさい。これは機械文明に毒された現代への警鐘よ」
大河が無意味に偉そうに胸を張る。畜生。
「嘘つけっ!口から出任せのくせに!」
できもののように所かまわず発生する夫婦漫才は、3−Bでも歓迎されている。それはそうだろう。昨日より確実に大河の機嫌はよくなっているのだから。
説明は国文学から始まった。テーマは源氏物語。
「『車争ひ』だっけ。2年の授業でやったよね」
「そうだね。古文で勉強すると退屈だけど、小説としての源氏物語はおもしろいんだ」
リーダーが男のせいか3−Aの反応はにぶい。だが、ネタさえよければ自然と食いつきはよくなるものだ。
「光源氏は学校が幾つも入りそうな敷地に御殿群をつくって、恋人達を住まわせてる。発想が異常だよ」
「ハーレムだね」
「それなんてエ」
何を言おうとしたのかあわてて口をつぐむコンピュータ班のリーダーの横で
「おう、男の夢だなっててててやめろ!耳がちぎれるっ!」
竜児が悲鳴を上げる。
「この頃の恋の形は形式美に彩られていて、とてもロマンチックだよ。恋愛そのものが詩や音楽といった芸術と同列で扱われている。高校の展示では中々突っ込んだこと書けないんだけど、主人公の光源氏は、
セックスそのものも詩や音楽と同列に形式美の中でとらえていたんじゃないかな」
高校の展示では言いにくい事を言ってしまった国文学班のリーダーは顔を真っ赤にしているが、聞いているほうも3−A、3−B全員真っ赤である。父兄への説明の時には少し気を使ったほうがいい。
◇ ◇ ◇ ◇
次の展示は社会学。リーダーは噂の吉田さんである。実のところ彼女は3−Aにおいて今もっとも注目されている女子だ。ごく普通の女の子だが、適度に明るく、控えめで誰にも優しそう。小柄で少し短めの髪をきれいにまとめているのが愛らしい。
おまけに数学のお礼に木下に弁当を作ってあげたときの可憐な恥じらいは、リーダー連から3−Aに(女子がいない所で)詳しく伝えられている。
自分の目で見ていないだけに、「そんな可憐な乙女が現代の日本にも居たのか」と、神格化され、用もなく3−Bの前を歩いて中を覗き込むファンは多い。木下の勘違いは横におくとして、「数学でお弁当をもらえるのなら、自分にもチャンスがあるかもしれない」という、
少年達の儚い夢を責めることは出来ない。
注目度合いなら同じくらい目を引いている女子が別に居る。が、虎は一人二人と数えないから並べて考えるのは吉田さんに失礼である。
「吉田です。それでは社会学の説明をはじめます」
恥じらいに彩られた挨拶に、3−Aのリーダー連も、はいお願いしますと口許が緩む。ひとり竜児だけは渋い顔をしているが、これは脚を大河につねられているせいだ。
「社会学は、社会、つまり人間関係を調べる学問です。これは、人間同士の関係と、それぞれの人間の行動の研究双方から成り立っていて…」
驚くべきことに、吉田さんの社会学の解説は、バリバリにハードだった。やわらかい語り口にもかかわらず、数理社会学だの、社会統計学だの、ゲーム理論だのという言葉が出てきて、竜児の度肝を抜く。おそらく、3−A代表でちゃんと理解できているのは木下だけだろう。
「今回の展示では、3−Aの木下君に数学のことを教えてもらいました。木下君、ありがとう」
木下は照れて頭をかいているが、内容に圧倒された3−A連は、からかわずに素直に賞賛の拍手をおくる。
「あ、こんなところに木下のクレジットが」
「本当だ。畜生」
「すまん、高須。実は俺のもある」
と、田口がぺろりと暗幕をめくる。ベニヤ板に鉛筆で
『田口』
と、一言。
「お前…」
「木下君は、こんなに分かりやすい説明を書いてくれたんですよ」
3−Aの悪弊になりつつある突発コントを恐れたのか、吉田さんがレポート用紙の束を差し出してきた。びっしりと鉛筆で書き込まれたレポートには、随所にグラフやイラストが書き込まれている。今週書かれた割にぼろぼろなのは、
きっと勉強するために吉田さんが何度も読み返したのだろう。
「アスパラガスの太さの分布と標準偏差…」
「肉、魚、魚、肉、肉、魚……………竜児、もう少しお肉をお願い」
「木下、これ全部お前が書いたのか?」
「うん」
食欲をそそられている約一名を覗き、一同唖然。説明が参考書なんかよりずっと分かりやすい。丁寧で具体的なのだ。
「木下君は、すごく分かりやすい説明を書いてくれたんです」
「くそー、頑張りやがったなぁ」
と、一瞬天秤は木下賞賛に傾くが、
「おう、これ方針転換のリーダー会議サボって書いた奴だろう」
竜児の一言で一気に針が反対側に振り切れ
「ええ!?」
「裏切りだ」
「俺たちを天秤にかけたな」
いつもの木下いじりが始まる。そしてやわらかい笑顔で田口が
「この解説は下心で穢れているから没収だ」
と冗談を飛ばしたときだった。
「だめっ!」
さっと伸びてきた白い手が、レポート用紙の束を田口のごつい手からひっさらう。そして紙の束を胸に抱えたまま吉田さんは2,3歩後ずさり、パネルに背中があたったところで行き止まると、うつむいてしまった。
えっ、という声も出せずに3−Bの教室が凍りつく。
えっ、えっ、えっ?!何?何?弁当のときのようなキャーッという声すら上がらない。静まり返った教室で全員が同じ事を考えていた。
マジですか?吉田さん。
弁当はわかる。あれはお礼。展示を隣の組の男子が手伝ってくれた。だからお礼に弁当をつくった。きゃーっ!弁当ってちょっと飛躍しすぎよね。吉田さん、だめよ。誤解されちゃうわよ。でもお礼だから仕方ないよね。そうだよね。礼儀だもん。
3−Aの男子だってそれを十分分かっていたから木下いじりで遊んでいたのだ。木下、誤解するな。変に期待するとお前が傷つくぞ。
だけど、これは何だろう。吉田さん、そのレポート用紙の束を胸にかき抱く姿は、まるで恋人の手紙を悪人から守ろうとする乙女のようじゃないですか。
「あの。えーと。ごめん」
ようやく田口が言葉を取り戻して、ぺこりと頭を下げる。
「おう、そうだ、田口。ふざけ過ぎだぞ。吉田さん、ごめん。他意はないんだ。許してやってくれないか」
竜児も取って付けたように吉田さんにクラスメイトの非礼を詫びる。本当なら村瀬か書記女史にとりなしてほしいところだが、二人とも、まだショックから立ち直れていない。誰か助けてくれ。
大河が弱々しく竜児の袖を引っ張った。
「ねぇ、竜児。次行きましょう。英文学の説明してあげる」
◇ ◇ ◇ ◇
見ものと言えば、これ以上の見ものはないだろう。居並ぶ3−Aのリーダー達を前に、今、まさに手乗りタイガーこと大河が英文学の説明をしようとしていた。
今でこそ大人しくなっているとはいえ、手乗りタイガーと言えば大橋高校でその名を聞いて声を潜めぬ者は居ないくらいの悪名である。1年生の時にはその現実離れした美貌に引き寄せられる少年たちの告白を右から左に切って捨てて消えぬ傷を心に残し、
噂によれば写真部の部員を一人ずつ闇討ちにして廃部に追い込んでいる。何が不満なのか四六時中仏頂面で廊下を歩く姿は人波が左右に割れるほど禍々しかったという。そして2年生に進級してからはヤンキー高須(なんてセンスのないあだ名だ)と組んで生徒会の乗っ取りを図り、
挙句の果てには全校生徒の心の兄貴と呼ばれた前生徒会長、狩野すみれに木刀一本で殴りこみをかけまでしている。つい最近も生徒会室前で暴発しかかり、暴虐の女王が健在であることを示したばかりだ。
正真正銘の凶状持ち。それが大河だ。
そのくせ、お勉強はできるのだ。竜児はそれを知ったとき椅子から転げ落ちるほど驚いた。親と先生の言うことをよくきき、予習復習を欠かさず、規則正しいおだやかな生活と毎晩の勉強を心がけて学年トップ10入りを目指していた竜児。
その竜児にとって、部屋は散らかし放題、素行不良で好き嫌いだらけ、わがまま放題の大河のほうがお勉強ができるという事実は、受け入れるのにたっぷり3日かかるほどの衝撃だった。どこにいるとも知れない神様を恨んだものである。
もっとも、大河の成績がよくなったのは2年になってからだ。1年のころは名前の書き忘れが多くて結構な数のテストを落としていたらしい。どじの星の下に生まれるというのは悲惨なものである。2年のときの担任の恋ヶ窪ゆり(今年31歳まだ独身)が
特別に大河の名前の書き忘れに注意を払って指導してくれなかったら、到底国立選抜になど進めなかったろう。小学生みたいなエピソードだ。
とにかく、大河は神様からドジの星の下に生まれることと等価交換で美貌、身体能力、頭のよさを与えられている。そのうち前二者はほとんど恐怖の伝説として学校中に知れ渡っているが、今、その三つ目がついに白日の下にさらされるのだ。
ちょっと大げさか。
それにしても、と竜児は微笑む。この得意満面な態度はどうだろう。足をそろえてちっこい体の後ろで手を組み、あごを斜め上についとあげ、目を軽くあけて薄笑いを浮かべている。あごの線はガラスに施した精緻な細工のようにシャープで、
ミルク色の頬は触ればそのまま溶けて流れてしまいそう。小さくて形のいい鼻はうっとりするような曲線を描き、柔らかい微笑をたたえた薄い唇はバラの花びらを思わせる。
長いまつげは優美にカーブし、体を包む淡色の髪はこの世のものとは思えない、いっそ幻想的な香りすらする。これほどえらそうなフランス人形がいたとは、おもちゃ屋さんもさぞかし驚くことだろう。
「それでは、英文学の展示の説明をします」
竜児に文句を言っただけあって一応丁寧語で話すらしい。
「英文学は英語で書かれた文学を研究する学問です」
そりゃそうだ。フランス語で書かれてる本は仏文学者が研究するだろうからな。
「文学の研究をすると、昔の人の生活や思想がわかるのです」
この前言ってたな。
破綻のないまずまずの出だしだが、大河は相変わらず得意そうな顔で微笑んで3−Aのリーダー連の注目を浴びている。しかし、そのまま不動の姿勢をとられてもこちらも困る。
「で?」
なぜ話を続けないのかいぶかしみつつ竜児が先を促すと、
「『でっ?』て何よ」
と来たもんだ。えええ?
「いや、生活とか思想がわかるってのは、わかったからさ。その先を説明してくれよ」
「そのくらい自分で読みなさいよ!何のために苦労して展示を作ったと思ってるのよ」
めまいがする。
お前さっき、説明してやるって言ってたよな。これか?説明ってこれなのか。竜児はぎゅっと収縮した瞳を揺らしながら言葉を継ぐ術を探した。探せばその辺に落ちているのが見つかるとでもいうように。
「いや、その、あれだ…えーと………すまん、俺が悪かったような気がしてきた」
ぷっと3−Bの連中が吹き出して竜児を横目で見る。書記女史はじめ3−Bも苦笑い。
そして竜児は思い当たる。書記女史は大河がムードーメーカーだと言っていた。まさか、ムードメーカーだけやってたわけじゃないだろうな。というか、今やそれ以外竜児には信じられない。そもそも、大河がリーダーってのが信じ難かったのだ。
計画とか方針とかって柄じゃないだろう。それをぶち壊すほうがずっと得意だ。リーダーシップ?そんな言葉、知っているかどうかすら怪しい。「なにそれ、おいしいの?」とでも真顔で言いそうだ。
えらそうに手を腰に当てて得意げに薄ら笑いを浮かべている大河を見ながら、こんなやつの気分ひとつで盛り上がったりギクシャクしたりするらしい3−Bの連中は、何か重大な心の病でも抱えてはいやしまいかと、また一つ竜児は余計な心配事を抱え込んでしまった。
◇ ◇ ◇ ◇
文化祭で見たいもの、行きたいところがあったかというと、竜児には特に無かった。
クラス展示の作成には予想外にのめりこんだとはいえ、3−Aのそれはいったん展示が完成すると、あとは手がかからない。午後に1時間解説当番があるだけだ。他のクラスで売っているような、素人が作った焼きそばやクレープに興味があるわけでもない。
竜児の方がはるかにおいしく作ることが出来る。やったことはないが、断言できる。あちこちのクラスで安売りされているメイドカフェに行ってオムライスに自分の名前を書いてもらう気もしない。家で母親の泰子の名前を書いてやっている。
クラス展示を手伝ってくれた平原の美術部の展示は見たいとは思うが、それだって(平原には悪いが)最初から興味があったわけではない。そういうわけで、竜児は、あまり文化祭には興味は無かった。でも、何も期待していなかったのではない。やりたいことはあった。
大河と二人で文化祭を見て回りたかった。
去年、理不尽な親に翻弄されて人知れず心の中で真っ赤な血を流した大河のために、今年の文化祭では楽しい思い出を作ってあげたいという気持ちがある。そして、別段すばらしいわけでもない出店や展示を、大河と二人でぶらぶらしたかった。
素人が作った焼きそばを二人で食べて悪口を言いたかった。オムライスのはしごをしている能登を捕まえて、二人でからかってやりたかった。クレープを並んで歩きながら食べたかった。一人でしたいことは特に無い。でも、二人でしたいことはたくさんある。
特別なことじゃなくていい。大河と二人で並んで、一日だけのお祭りを楽しむ。それこそ竜児が文化祭にずっと前から期待していたことだ。そして、一つだけ特別なことを大河にしてあげたいと思っているのだが、今はまだそのときではない。
「大河、クレープおいしいか?」
「うん、おいしいよ。竜児も食べて?」
すっと、目の前に突き出されたクレープ。大河の小さな口がかじった所を、特に狙ったわけでもなく食べる。
「おう…甘ぇ」
「だってクレープなんだもん」
こともなげにそう言いながら、大河も竜児のかじった所を食べる。
二人は付き合い始める前から弁当のおかずの取り合いやお茶の奪い合い、嫌いな食べ物の押し付け(一方的に大河から竜児へ)を繰り広げていた。間接キス、竜児言うところの唾液の交換などとっくの昔である。それが雪の聖バレンタインデーのファースト・キスの後、
ちょっとだけ歯車が狂った。好きな男が飲んだ水筒のカップの飲み口。好きな女が使った箸の先。そんなものを目にするだけで二人とも頬を赤らめ、食べかけの卵焼きを目の前に突き出されでもした日には、顔から火を噴いて悶絶死しそうなほど胸をどきどきさせたものだ。
付き合い始めて実質6ヶ月になった今、間接キスはそれほどの重大事ではない。それはたぶん、二人が慣れてしまったということではない。それはたぶん、以前のようにお互いを空気のように感じているということだろう。だから竜児は大河と会えないと苦しくなる。
廊下を歩きながら息をするように自然に間接キスをかわすウルトラ美少女とS級ヤンキーの二人組みは、周囲の孤独な少年少女達の胸を残酷に切り刻みながら、ぶらぶらと展示を見て回った。
「あったたたたかす先輩、あああいさか先輩」
北斗神拳のような、しかしふんわりした、それでいて妙に色っぽい声をかけられて二人とも振り向く。すぐ後ろに、ぽやんとか、ぷわんとかいった感じの女の子が、見るからにびびった表情で一人立っていた。ほわんと引きつった笑顔でぺこりと頭を下げる。
「ちっ、あんたか…」
「おう、狩野さんか。この前は驚かして悪かったな」
可憐な歩くフランス人形からきつい舌打ちを食らい、人さらいの下見に来たチンピラから優しい声をかけられるというコンボダメージに汗を流しながら、もはや伝説化している先代生徒会長の妹、狩野さくらは、話しかけるなら怖くても話の通じるほうと決めたらしい。
「た、高須先輩、この前は本当にありがとうございます」
「よせ、窓ガラス割るような不良に礼なんか言うな」
ここは小さな声で、竜児としては軽妙な冗談のつもりだ。が、にやりと笑った顔におびえたのだろう、小さな悲鳴を上げられて落ち込む。
「でもあれは北村先輩のことを思って下さってのことですから」
「いやいや。それより片付けさせて悪かったよ。怪我しなかったか」
「はいっ!冨家君が片付けてくれました!」
ぱぁぁっと明るく笑ったところを見ると、狩野さくらは富家幸太を好きなのだろうか。しかし、そういう乙女乙女した雰囲気があまり好きでなさそうな虎が約一頭
「ちっ、あの黒猫野郎か」
せっかくリラックスしてきた狩野さくらを茨のごとき不機嫌ボイスでぐるぐる巻きに縛り上げる。
「おまえなぁ。そうだ、北村はどうしてる?」
「は、はい、先輩はすっかり元気になって、今日は一日中見回りです」
「あいつは懲りねぇな。ま、そこがいいとこか。元気になったのなら文句はねぇ」
「そうよ、竜児も北村君のまじめなところを少しは見習えばいいのに」
「冗談じゃねぇ。俺は十分まじめだし、あんな露出狂なんか薬にしたくもねぇ」
「なによ!」
往来の真ん中で今日何度目かの夫婦漫才を始める二人を前に、くすっと狩野さくらが笑い
「お二人は本当に仲がいい恋人同士なんですね。とっても幸せそうで素敵です。私も富家君とお二人のように…」
顔を赤らめて、不必要にグラマーな体をもじっとひねる。
そして竜児の横では狩野さくらの不用意かつそれほど的を外していない発言を至近距離で被弾したせいで、大河が大変なことになっている。
「あ、あ、あ、ああああんた、ななにいっちゃってくれちゃってんのよ。わた、わた、わたしとりゅうじが」
「もういい、もういいから大河」
クレープ片手に火を噴くほど赤面して呂律の回らない大河の頭を優しくなでてやりながら、
「狩野、北村に感化されないよう気をつけろ。働きすぎの日本人なんて今更流行らないからな。あと、富家に『男としての気構えが足りねぇ』と伝えといてくれ」
偉そうに言うと、竜児は大河を連れてその場を離れた。
◇ ◇ ◇ ◇
「高っちゃーん!タイガーっ!久しぶりジャーン」
「あ、ロン毛虫」
「おう、春田じゃねぇか」
エプロン姿でへらへら笑いながら手を振っている長身の男に、二人とも足を止める。旧2−Cで同級生だった春田浩次だ。ちょっと教室に戻って様子を見るか、などと3年の階に戻ってきたときのこと。
「うちのクラスよってきなよ。焼きそばうまいよ。今年も俺が実行委員なんだぜぇ」
「今年も俺がって…なんか微妙に日本語おかしいぞ」
そう言いつつ横を見ると、扉にはシンプルに『焼きそば』の4文字。それにしても。中は暗幕を使っているみたいだし、扉は閉めっぱなしだ。いい匂いがするとはいえ、もう少し明るく開放的にしないと食い物屋は流行らないだろう。
「それよりロン毛虫の焼きそばってのが恐ろしいわよね。中でもぞもぞ動いてたり。おお怖い」
両腕を抱えて震えるまねをしながら、大河が嫌味を言う。
「タイガー冷たいよぉ。きょうは二人ともおごりだからさ、寄って行きなって」
「え?おごり?」
「タダなのか?」
「そうだよ、二人はタダでいいよ」
「竜児、行きましょ」
「おう、なんか恐ろしいな」
ぼったくりバーだか人体実験だか知らないが、タダより恐ろしいものは無い。竜児も大河もぷぃっと視線をそらして怪しい客引きから一刻でも早く逃れようとする。
「ちょっとちょっと、待ってよ高っちゃーん。うちの焼きそばは高っちゃんにもタイガーにも絶対気に入ってもらえるよ。シェフ櫛枝が腕を振るってんだらさー」
「え、みのりんが?」
「おう、櫛枝か」
立ち去ろうとした二人が脚を止める。
春田によれば、櫛枝実乃梨は文化祭のクラス展示から積極的に提案を行い、企画にかかわっている。準備期間中、ほとんど手伝えなかったので今日は開店から閉店まで腕を振るっているらしい。
「櫛枝っちってすっげー料理うまいぜ。タイガー知ってたぁ?」
「知ってるわよ。みのりんの料理はプロ仕込なんだから」
大河が自分のことのように得意げにこたえる。
体育大学進学のために数え切れないほどのバイトをこなしてきた実乃梨のことだ、文化祭の模擬店の焼きそばなど、造作も無いことだろう。準備期間中手伝えなかったというのは、部活を引退しても自主トレを続けているからか。しかし…
「ねぇ、タイガー、高っちゃん、寄ってきなよ。櫛枝っちも喜ぶからさあ」
「ふーん、そう。ロン毛虫が呼び込みってのが胡散臭いけど、みのりんが焼いてくれるのなら安心よね。ねぇ、竜児寄っていきましょ?」
そう竜児を見上げて優しく微笑む大河をよそに、竜児は何か違和感を感じていた。おかしい。何かが引っかかる。いったい何が引っかかってるんだろう。このまま入ってはいけない気がする。なぜだ。考えろ考えろ高須竜児…
「おい、春田。櫛枝は提案から関わってるって言ったな」
「うん、そうだよ」
「竜児、どうしたのよ」
早く入ろう?おなかすいちゃった、という顔で大河が袖を引く。
「だったら、なぜ焼きそばなんだ?」
「え、いやだなー高っちゃん…」
春田がどっと額から汗を噴く。ビンゴ。これはただの焼きそばではない。ポケットに突っ込んでいた文化祭のしおりを開く。クラス展示3−D…
「おう、『おばけ焼きそば』?なんだよこれ」
「え?大盛りなの?」
約一名、間違った方向で喜んでいる奴が居るが、明らかに竜児の指摘は春田が隠している何事かのど真ん中を射抜いている。
「これ、お化け屋敷と焼きそば屋のセットだろう」
「へ?」
「あははははは…」
「大河、行くぞ。これは櫛枝のお化け屋敷だ。あいつお化け好きとか言って、本当はスプラッター・ホラーのマニアだからな。焼きそばに入っているのは豚肉とかじゃなくて目玉とか内臓に決まってる」
「嫌ーっ!竜児それ以上言わないで!」
おぞましいイメージに大河が目を閉じて耳をふさぐ。一方、これまでと観念したか、春田はあまり見せないきりりとした表情で
「ええい仕方ない!出でよ闇の軍団!」
そう号令した瞬間、閉まっていたドアが20センチほど開くと、にょきっと太い腕が出てきて竜児の腕を掴んだ。
「うわっ!なんだよこれ!」
ばしばし叩いて振り払おうとするが、腕は次々と隙間から出てきて竜児を掴む。掴むところを探してぐねぐね動いている腕もあって、鳥肌が立つほど恐ろしい。高校の文化祭のクラス展示と思えない。
「いやーっ!竜児助けてっ!」
悲鳴に目をやると、開いた窓の隙間から伸びた腕が大河の袖を掴んでいる。手乗りタイガーにこんな不逞を働くなど、普通なら、加害者骨折→入院→受験失敗→人生終了のお知らせ。となる所だが、ホラーのイメージを吹き込まれてしまったせいだろう、
にょっきり生えた腕に大河も身がすくんでいる。するにことかいて、女子にこんな事までするとは。それ以前に大河に触るな馬鹿。
カチンと来た竜児が、やおら扉を開けて、中の連中を本気の怒りを込めて睨む。
「お前等!名前言ってみろ!」
いきなり現れたプロのチンピラ譲りのガンつけに、うわーっ!と5人ほどが尻餅をつく。這いずって逃げる奴がアウアウと声を上げ、中の暗幕までばりばりと?がれ、悲鳴やら何やら、ドンガラガッチャン阿鼻叫喚。
「高っちゃん何するんだよ!」
「お前が『何するんだよ』だ、この馬鹿!」
「何だよ高っはぐぐぐぐ〜〜〜〜」
何らかの抗議をしたかったらしい春田だが、やおら目の前に現れた大河がぐいと両手を突き上げ、頬をつまんでそのまま宙吊りにしてしまった。
「このエロがっぱ、殺してやるからっ!竜児!止めないで!」
「おう、かまやしねぇ。そのままねじ切ってしまえ!」
怒りのあまり、めちゃめちゃ不条理なことを言い出す竜児。一昨日の田口の感動的な「守りたい」演説も水の泡である。竜児の許可をえて大河が春田の頬を逆方向にひねりあげる。
「あひゃひゃひゃひゃ」
「おう、こいつ笑ってやがる!」
顔も心も悪に売り飛ばしてしまった竜児が、まだ加虐がたりねぇとばかりに大河をけしかける。周囲にはまばらに生徒達が居るが、久々に見る手乗りタイガーの暴虐に目をそらし、関わりになるのを恐れてその場から足早に去っていく。
何しろ今回はオプションのヤンキー高須付きである。写メなんか撮ってぐずぐずしていたら何が起きるか知れたものじゃない。
もうちょっとで春田の頬が千切れるかな、というところで3−Dの反対側の扉が開いて白い人影が飛び出してきた。
「ちょっとちょっと、タイガーやめて!」
「いやぁっ!おばけ!」
廊下を駆けてきた和風お化けに、大河が春田を放り出して竜児にしがみつく。いきなり投げ捨てられた春田は「ぎゃふん!」と声を上げて廊下でバウンド。そのあたりでキューと伸びてしまった。
「きゃっ!春田君大丈夫?」
言葉と裏腹に、両足をきれいにそろえて座り込んで、つんつん人差し指でつついている幽霊。よく見ると香椎奈々子だ。
「おう、香椎じゃねえか。なにやってんだ?」
「高須君おひさしぶりー、タイガーも元気そうね!」
旧2−Cで二人の同級生だった奈々子が立ち上がって、癒し系全開の微笑みを投げかける。竜児にしがみついていた大河もようやく事態が飲み込めてきたようで、大きく息を吐く。
「ひさしぶり。って、何よその格好」
「ん?これ?幽霊よ」
そんなことは見ればわかる。
和風ど真ん中の死装束を着込み、頭には例の三角の布きれ。旧2−C公式美少女トリオの一角を担っていた香椎奈々子ともあろうものが、何をやっているのか。と、突っ込みたいところだが、正直いって破壊力はすさまじい。
さりげなく体の線を強調した死装束は、いっそけしからんと言ってやりたい。おまけに本人が美形なのが罪深い。こんな格好なのに、両手を前に垂らした古式ゆかしい幽霊のポーズで小首をかしげ、片足のつま先をトンと床で鳴らしながら
「どう、似合う?」
などと問う仕草は、間違いなくさみしい男の心臓を握りつぶすだろう。ねぇ、一緒にあの川渡りたいの、などと言われればサンデー読者の8割は二つ返事で三途の川へと飛び込むに違いない。
とは言え、
「『似合う?』じゃねぇよ!」
竜児には大河がいる。こんな事でごまかされはしない。
たぶん。
◇ ◇ ◇ ◇
「まったく…お前等何してんだよ」
「何って?焼きそば屋だけど?」
怖くないから、大丈夫だから、目さえ閉じていれば大丈夫だからと言いくるめられて通された『VIPルーム』は確かに怖くなかった。暗幕で仕切った教室の一角。確かに、ここにはワカメも厚揚げもない。破れた提灯もない。
そのかわりに一面が開いていて、カウンター代わりの机がおいてある。
で、そのカウンターに肘をついて外からのぞき込みながらひまわりの花のような笑みを振りまいているのが
「高須君、こう見えてもおいらの焼きそばは108まであるぜ」
女子ソフトボール部を関東ベストエイトまで引っ張っていった豪腕の持ち主、櫛枝実乃梨である。ちなみに去年まで竜児の想い人だった。VIPルームの中には椅子と机がおいてあり、数人が机を囲んで焼きそばを食べることが出来るようになっている。
今いるのは竜児と大河、頬を腫らした春田と幽霊姿の奈々子、それにカウンターから陽気な笑顔を突き出している実乃梨。
「で、その焼きそば屋がどうして悲鳴に満ちあふれてるんだ?」
VIPルームの外には、絶叫やら笑い声が飛び交っており、とうてい焼きそばを食べる雰囲気ではない。先ほどまで静かだったのは、お化けを嫌がりそうな竜児と大河を中に引き込むため一時的に活動を停止していたのだとか。なんなんだよ。
「あら、新感覚焼きそばよ。楽しみながら味わってもらうの。うふふ」
と、昨年より一層色っぽく笑う奈々子。もういい。
「何を考えているのか、まったく理解できねぇ。とにかく、さっき大河に触った奴連れてこいよ」
「ちょ、高っちゃーん。あれ事故だから」
「そうそう、高須君落ち着いて」
「やだぜ高須君!暴力はよくないし、君のがらじゃないぜ!」
3方向から引き留めがはいる。が
「おう、暴力は俺のがらじゃねぇよ。だから大河の好きなようにさせる」
と、竜児はこれ以上考えられないほど苛烈な暴力的解決策を突きつける。それじゃ死人が、と3−Dの3人が息を呑む中、
「そうねぇ。竜児の前であんな恥かかされて。私もう生きていけないわ。だから、そいつ捕まえて殺しちゃいましょう」
体を覆う煙るような淡色の髪を震わせて、うつむいたまま大河が冥府の底から響くような声で呟く。ちなみに目ん球ひんむいて机をにらみつけている様子が手に取るように竜児から見えている。机がカタカタ揺れているのは、きっと大河が体を震わせているからだ。
机が恐ろしさに震えているとか、大河から何か恐ろしい物が出ていて揺らしているとか、そんなことではない。ないはず。
「待って待って待って」
「ちょちょちょ」
「待ったーっ!」
久々のダウナーオーラを大河から浴びせられた3人が焦りまくり、言葉をつくして慰留にかかる。一方、だんだん面倒くさくなってきた竜児は
「じゃ、もういいよ。わかったわかった。大河、行こうぜ。村瀬に『3−Dが客の女の子に痴漢している』って言いに行こう」
切り上げにかかるが、この一言で、3人はさらなるパニック。
「お代官様ーっ、おねげぇでごぜーますだ。ご勘弁してくだせーっ」
「ねねね、高須君、落ち着こう?落ち着こう?」
「やべーよ、高っちゃんマジで切れちゃったよ。これじゃ福男釣れないよ!」
え?
VIPルームが静寂に支配される。全員が、息を呑んだ。ただし、考えている事はバラバラ。
竜児は春田をにらみながら、「今、変なこと言ったよな」と。
大河はアンニュイな瞳で、「もういいや、おなかすいちゃった」と。
実乃梨は目をそらしながら、「やべー」と。
美人幽霊は春田に笑顔を向けながら、「いっぺん、死んでみる?」と。
春田は、「やべーよ、高っちゃんマジで切れちゃったよ。これじゃ福男釣れないよ!」と。
しばしの沈黙のあと、
「おう、『福男釣る』ってどういう事だよ。3秒以内に説明しないと村瀬に言いつける。321」
「わーったよ。全部話すよ。カウント早いぜ高須君。あーもう。春田君どうしてくれるんだよ!」
竜児の脅迫に実乃梨が低い天井を見上げた。
◇ ◇ ◇ ◇
実乃梨が白状したのは恐るべき計画だった。
3−Dは竜児達の国立選抜クラスのようなエリート集団ではない。とはいえ、大橋高校は進学校である。クラスメイトそれぞれに期する所がある。だから、是非とも欲しいのだ。福男の景品である狩野すみれのノート、通称『兄貴ノート』が。
天才にして努力家だった先代生徒会長狩野すみれは、自らが2年と半年かけて作り上げた授業のノート、疑問点と質問とその回答のまとめ、全試験の答案(すべて満点!)を昨年の福男レースに際し景品として与えたのだ。
ちなみに獲得したのは同着首位だった竜児と実乃梨。本来これは譲渡された物だったが、生徒会からの依頼で竜児と実乃梨は今年の福男レースの景品として返還することに応じた。今年からノートは学校の宝として福男レースの勝者に1年限りで貸与されることになる。
教科と時期さえ定めれば望みの知識が手に入るという、アレクサンドリアの図書館も裸足で逃げ出す驚異のオーパーツ、兄貴ノート。
このノートは是非欲しい。だけど入手するには福男レースで勝たなければならない。といっても、頼りの運動部はすでに引退済みであり、日々研鑽を重ねている後輩達と一騎打ちで勝てるとは思えない。昨年の優勝者の実乃梨は出場禁止。
だったら昨年のバレー部や陸上部のように手段を選ばない方法で…それは嫌だなぁ。特に自分の手を汚すところが。文化祭を前に3−Dの生徒達は手の届かないところにバナナをぶら下げたチンパンジーのように無力だった。
そこへ担任に内緒で企画を売り込んだのが櫛枝実乃梨である。3−Dには、香椎奈々子が居る。彼女がミスコンで1位を取ればいい。そうすれば福男が誰であれ、香椎奈々子はノートのコピーをねだることが出来るだろう(嫌だと言われたらダンスに応じない)。
コピー代は全員で分担すればいい(もちろん奈々子は只)。コピーは教室の備品とする。ちなみに兄貴ノートの総ページ数は数千に達する。昨年、竜児は実乃梨の分をコピーすることを考えたが、到底高校生のお小遣いでまかなえる額ではないため、あきらめた。
この企画を成立させるには、奈々子に是非とも勝ってもらわなければならない。そのために今日一日美人幽霊としてあまねく校内にその美貌をとどろかせる。生徒には『3−Dにすごい美人がいる!』とランダムなサクラメール(郵便局に怒られても知らない)を流す。
最初の一陣が来ればあとは口コミの連鎖反応で客は入るだろう。そして、審査員には激ウマ焼きそばを只で、しかも香椎奈々子と差し向かいでおしゃべりしながら食べて貰うためのVIPルームを用意。
すなわち、この悪魔のような計画こそ届かないバナナを手に入れるための棒であった。
文化祭クラス展示の名を借りた兄貴ノート強奪作戦。恐るべき計画である。
「お前は、アホだ」
得意満面に計画を披露した実乃梨に竜児が投げかけたのがこの言葉だった。これがかつては惚れ抜いていた女に言うセリフか、と後ろ指をさされそうだが
「てへへ、おいらもそう思うぜ」
実乃梨本人がそう思っている。
「ちょっと、竜児。みのりんに何て酷いこと言っているのよ」
割って入った大河がたしなめるが、竜児はどこ吹く風。決定的な事実を大河に突きつける。
「コピーしたけりゃ半年時間があったんだよ。先月まで櫛枝も所有者だったんだから」
ぱかん、と大河の口が開いた。全幅の信頼を置いていた親友がアホだったと知ってしまった瞬間だった。
「いやー、おいらもうかつだったぜ。あんまりお勉強しない学校に進むつもりだから、ついつい全部高須君にあずけて忘れちゃったんだよね−」
「おう、おまけに3−Dの誰一人として、頼めばコピーさせてくれる奴がクラスに居ると気づかなかったんだからな」
「うふふふふ、うかつよねぇ」
うかつよねぇ、ではない。笑っている奈々子も、そのうかつな一人だ。
「まったく。それで、どうなんだ?集客のほうは」
「いえい!ばっちりだぜ。右肩上がりだよ。さっきから奈々子っちが出てないから客足にぶってるけど、またサクラメールばらまけば無問題さ!」
悪びれることなく笑顔を振りまく実乃梨に大河が頭を抱えている。いい加減クラス展示から離れたくなった竜児はため息をつきながら、
「だいたいこんな大騒ぎしなくても、ミスコンは香椎の優勝で鉄板じゃないのか?」
話をそちらに振る。
「うふふ、うれしい。高須君、私の事きれいって思ってくれてるんだ?」
「この状況でシナ作っても無駄だぞ。それはそれとして、前評判だとお前だろう」
事実、今年のミス大橋高校は3−Dの香椎だ、という声は男子生徒の間で強い。もともと美人な上に体型維持の努力を絶やさない。いくぶん陰のある落ち着いた立ち居振る舞いと、包容力のある笑顔が多くの男子生徒の心をとろかしている。
その上、香椎は昨年1年間、プロモデルの川嶋亜美の薫陶を受けてきたのだ。プロからもたらされる、コスメやエステといった情報がダイヤモンドの原石を短時間で磨き上げ、去年から一層美しさが増している。
「いやーそうなんだけどさー。対抗馬が麻耶様なんだよ」
「そうなのか。それにしても…」
竜児の好みは別として、香椎奈々子のほうが同じく2−Cの同級生であった木原麻耶より人気がある。木原麻耶は川嶋亜美が転校してくるまで、香椎奈々子と共に2−Cの公式美少女コンビの一翼を担っていた。落ち着いた和風美人の奈々子に対して、
麻耶は当世ギャル系美人と言えた。いずれアヤメかカキツバタ。二人とも甲乙付けがたい。しかし、この年代の寂しい少年達には、空想の恋人に優しさを求める傾向が強い。そうすると美の優劣は別として、奈々子のほうに人気がでるのが自然である。
だから、3−Eの麻耶を恐れる必要はないのだが…
「向こうはあーみんがバックに付いてんだよねぇ」
「おう、川嶋が後ろ盾か!」
ようやく竜児にも3−Dが麻耶を恐れる理由がわかってきた。
川嶋亜美はプロモデルだ。一学期の途中に大橋高校に転校してきた彼女は、最初に仲良くなった奈々子と麻耶に、コスメやエステの情報をいろいろ与えていた。おしゃれと男の子の視線に関心のある年頃である。きゃっきゃうふふと談笑する3人は、
いつも新しい化粧品やファッションの話をしていた。それが奈々子の容姿を磨いたのだ。同時期に奈々子と同じく亜美の薫陶を受け、今年も亜美と同じクラスの麻耶のポテンシャルがさらに高まっているだろうことは、想像に難くない。
そしてなにより、亜美はプロのスタイリストの技を関心を持って盗み見ており、昨年のミスコンでは大河に対して存分に腕を振るっていた。今年はその技が麻耶に施されて3−Dの前に立ちはだかるだろう。
◇ ◇ ◇ ◇
「どうでもいい話だったな」
一通り聞き終わって竜児は背伸び。
「高っちゃん、ひでー」
ロン毛の批難など毛虫ほどにも怖くない。毛虫は怖いぞ。刺されたら痛いし化膿することもある。
「酷いのはお前達だ。俺たちには全然関係ないじゃねぇか。大河まで巻き込みやがって」
「われわれトライデントはすべてのミスコン関係者を懐柔するつもりなのだよ御神苗君。関係者は票の重みが違うからね」
「御神苗って誰だよ。だいたい俺も大河もミスコン関係者じゃないぞ」
「何言ってるのさ、大河はミスコンで」
「みのりん言っちゃだめ!」
え、なんだって?
あ、言っちゃまずかった?
あちゃー、ばれちゃった。
ん、なになに?
絶叫渦巻く『おばけ焼きそば』のVIPルームが再び静寂に包まれた。静けさや・岩に染み入る・蝉の声。お互いがお互いの顔を見て、次に何がおきるか固唾を呑んで見守っている。喧噪の中、沈黙を破ったのは竜児。
「大河、お前まさかミスコンに出場する気じゃ」
「違うの!」
大河は小さな手で待てのサイン。
「あーあ、ばれちゃった。仕方ないよね。竜児、びっくりさせようと思って黙ってたんだけどさ。今年のミスコンの司会、私なんだ」
急な話で竜児は声が出ない。シカイ?なんだそれ?わかった、石化の呪文の一種だろ…。
「朝、一緒に登校できなかったでしょ。あれ、クラスの準備もあったけど、ミスコン準備委員会の打ち合わせもあったんだよね」
「…そ、そうか」
「え、でも高須君本当に知らなかったの?」
美人幽霊が首をかしげる。お色気ぼくろが去年にまして破壊力たっぷり。
「おう、だって、ほら、発表なかったろ?司会」
竜児はそう答えるのだが
「何言ってんだよ高っちゃん、最初のLHRでちゃんと言ってたじゃん」
いや、お前とはクラスが違うし、と言い返そうと思ったところで、実乃梨もきょとんとしているのに気がつく。え?クラスが違うからって話だろ。え?
「ごめん」
と、気まずそうに微笑みながら言ったのは大河。
「生徒会から司会の話が来たときにね、条件付けたの。『竜児に内緒なら』って」
「へ?」
「驚かそうって思って。だから3−Aは村瀬君が竜児に内緒でみんなに教えてるはずよ。他のクラスは知ってる。3−Bには共同企画が決まったときに『竜児には内緒だよ』って念押ししてるの」
えーーーーーーーーーっ!
「いやぁ、驚愕の展開だねぇ。おっちゃんも驚いちゃったよ。大河は高須君に誰かが話すかもって思わなかったのかい?」
「そこは賭けよね。でも竜児は部活やってないじゃない?学校が終わったら私とすぐ帰るし、クラス展示をするならクラスにずっと居るだろうから、ひょっとしたら最後まで気づかないかもって思ったの。途中でばれても悪いことしてるわけじゃないから困らないし、
もし最後まで行ったら竜児はきっとびっくりよ。惜しかったよね、もうちょっとで驚かせたのに」
大河は実に楽しそうに、驚くべきいたずら計画の全容を話してくれる。二週間の間、全校生徒が知っていることを竜児だけが知らずに居たのだ。竜児は一言声を出すのがやっと。
「いや、十分驚いてる」
がっくりと机に伏せる。ぜんぜん気づかなかった。
「竜児、怒ってる?」
「怒ってねぇけど…やられた…」
今日は驚かされることが多い。ともかく、驚きはしたが、大河は楽しそうだ。悪いニュースでないなら竜児はそれでいい。別に大河を怒らなければならない話でもない。もうちょっと、とりあえず体に力が入るようになるまでこうして机に突っ伏しておこうか。
あ、ミスコンが無事終わるか心配。
「いやぁ、大河のいたずらっ子ぶりにはびっくりだぜ。まさか生徒会を巻き込んでいたずら仕掛けるとは。高須君のぼけっぷりにも脱帽だけどね。学校中が大河の司会の話で持ちきりだったのにさぁ。高須君て大河以外に友達居ないのかい?友達作った方がいいぜ」
実乃梨がひまわりのような笑顔全開でニコニコしている。大河は気まずそうにエヘヘと笑っている。奈々子もおかしそうにウフフと笑っている。春田も頭悪そうにアハハァと笑っている。
しかしその時、ふと竜児の頭に小さな疑問が浮かんだ。
「なぁ、大河。司会って投票権あるのか?」
「え?投票券?貰ってないよ。あとでくれるのかな?」
今度は3−D側が凍り付いた。よりによって何のメリットもない人間を呼び込んで重大な機密を漏らしてしまったらしい。
お前たちは本当にアホだ。
◇ ◇ ◇ ◇
大河と二人でクレープを食べた。
大河と二人で焼きそばを食べた。
二人で美術部と書道部の作品展を眺め、
二人で吹奏楽部のコンサートに行った。
「クラシックなんて退屈じゃないかしら」
と、言っていた大河は、体育館一杯に広がる美しい音楽に目をきらきらさせたものだ。そしてたちどころに居眠りしてしまった。それの何が悪い?自分の肩に頭を預けて眠る恋人。そのあどけない寝顔を流れる一筋のよだれを拭ってやる以上に幸せな文化祭を竜児は想像できない。
そして、午後4時過ぎの
「文化祭の展示はこれで終了です。各クラスは、展示の片付けを始めてください」
放送を合図に3−Aのクラス展示は終了した。
「お疲れさん!」
「お疲れ様−!」
笑みを浮かべたクラスメイトの拍手が教室に満ちる。派手な興奮はなかったが、自分たちなりに充実した準備期間であり、自分たちなりに満足のいく展示だった。
よーし、撤収しよう。村瀬が声をかけ、教室のあちこちからおーっと声が上がる。一所懸命作った展示の紙がはずされ、クルクルと巻かれていく。ばりばりと暗幕を引っぱがすクラスメイトに、画鋲をひとつひとつ外せと竜児の罵声が飛ぶ。
「あ、そうだ。みんな打ち上げやるよね?」
「おお、いいねぇ。やろやろ」
「後夜祭の後だよな」
「当然!」
「かーっ、俺行けないよ〜」
「マジかよ」
せっかくの提案だったが、行けない奴もいた。少ない人数で短時間に力を合わせて展示を成功させたのだ。本当はみんなで行きたいのだが、高校生だ。夜遅くまで遊ぶのを許してくれない家もあれば、用のある家もあるだろう。
「行ける奴何人いる?」
村瀬の問いかけに、ぱらぱらと手が挙がる。ミスコン組も誘ってやろうぜ、と言う声が上がり、湯川の化粧で忙しい女子に携帯で連絡が飛ばされる。半分ちょいが参加できるとわかった。
「結構居るね…よし、じゃ参加は14人…高須は来ないのか?」
「おう、行っていいのか?俺はまた、みんな俺抜きのほうが楽しいのかと思ったぜ。ミスコンの司会も教えてくれなかったしな」
「…」
「…」
ばれた?ばれた!一瞬気まずい沈黙が漂った後、教室中がひきつり笑いに包まれる。
「高須ぅ!怒るなって!」
「悪かった、な、な」
「悪気は無いんだよ、許してくれよ!」
「ちょっとしたいたずらだよ。サプライズサプライズ」
「そうよそう、逢坂さん可愛いとこあるじゃないか」
「高須は三国一の幸せ者だな!いいなぁ!うらやましいなぁ」
顔色ひとつ変えずに無差別ひねくれ凶眼を打ちまくる竜児を、クラスメイトはびびりながらなだめる。
「高須、わるい!司会やってもらう条件だったんだよ。俺たちも、ほら、是非去年のミス大橋高校に司会やってもらいたかったし。逢坂さんは華があるよな!」
村瀬も脂汗を流しながらご機嫌取り。
「ははは、そうだよな。それで、打ち上げの店どこ?」
竜児の肩を抱いて笑顔を浮かべながら田口が無理矢理話をすりかえる。しかし、話を振られた村瀬は思案顔。あんまり知らないんだよ、と。
「高須んちどうだ?」
「おう、2DKに14人で押しかける気か」
なかなか乗ってくれない竜児にクラスメイトはまたもや胆を冷やす。
「高須のお袋さんのお好み焼き屋だよ!」
馬鹿だなぁ高須は。なんだと?日本語は正確に使いやがれ!と、ひとしきり応酬した後
「大丈夫だと思うぞ、8時くらいだよな」
「そんなもんだろ」
話がまとまる。
「おう、ちょっと待ってろよ」
ぐわーっ、高須のお袋さん見たかったーっ!美人らしいぜ!と言う声を背に、携帯を取り出して電話を掛けようとする竜児。
だが、
「3−Bも呼んだらどうかな」
木下が遮る。
「ナイス・アイデア!」
いつもの木下いじり無しで賞賛の声が上がる。
実は、朝のリーダー招待発表会の後、リーダー連が集まって木下に「勘違いは俺たちだった」と詫びを入れている。頭をかきかき苦笑いしながらだったし、木下もいいよいいよと却って焦っていたくらいだから、それほどシリアスな詫びというわけではない。
だが、とにかく筋はとおした。だから、吉田さんの事で木下をいじる奴は、もう居ない。
ま、本当に付き合うことになったら冷やかしくらいはするだろう。何しろこの学校では虎とヤンキーのカップルさえ冷やかされる。
「よし、隣で聞いてこよう。高須も来てくれよ。そうだ。うちは人数が余ってるから何人か来てくれ。向こうの撤収を手伝おうよ。今度は断る暇を与えないようにしよう」
村瀬が声を掛け、数人があつまって3−Bへと押しかけた。
共同企画の成功で気心の知れた3−Bでは助っ人部隊も快く受け入れてもらえた。そして打ち上げに大喜びで賛同してくれた。参加者はやや少なくて12人。
「じゃ、店に電話するか…おう、泰子か。俺。8時から文化祭の打ち上げするんだ。うん、うん、そう。友達。30人くらい。いや、違う。わかってるだけで27人。少しくらい増えるだろ。おう、いけそうか。ちょっと待て…能登、引っ張るなよ。
あとにしろ…おう。大丈夫だ。おう。じゃ、8時な。30人。頼んだぞ。おーう。…………よし、大丈夫だ。8時から30人。閉店まで予約取れた…………どうした?」
村瀬が怪訝な顔をしているのに気づく。いや、村瀬だけじゃない。3−Bの全員が竜児のほうを…なんというか、どん引き?
「いやぁ、俺1,2年の時一緒のクラスだったから慣れてるつもりだったけどさ。チンピラだよ高須、チンピラ」
能登の一言に、ぷっと書記女史が吹き出して、それが合図だったように3−Bが笑い声に包まれる。腹筋の痛みに負けて座り込んだまま体をひくつかせている子がいる。吉田さんなんかパネルに頭を押しつけて、暗幕を握りしめながら体を震わせている。
「なんだよ」
不機嫌丸出しな竜児に
「高須」
と、村瀬が声をかける。
「相手、お母さんだよな。まるで…その、映画みたいだったぞ。情婦に電話するチンピラって感じで」
ちぇ、なんだよ。
◇ ◇ ◇ ◇
ミスコン会場は去年と同じく体育館。3−Aの連中は撤収が早かったので早い者勝ちの椅子を占領できたはずだ。が、村瀬の
「下級生に譲ってやろうよ」
の一言で、ミスコン・サポートの女子の為の席取りを除いて、全員教室でだべりながら時間をつぶすことになった。村瀬は気配りが細やかだ。もし去年の生徒会長戦に北村が出馬しなかったら村瀬が会長だったはずだが、それでも生徒会は立派に運営されたろうな、と竜児は思う。
「湯川のコスチューム知ってる?」
「知らない。知ってる?」
「教えてくれないんだよ」
俺たち嫌われてるよな、と馬鹿話をする間に時間が経つ。
もうころあいだろう、という頃になって全員でぞろぞろ体育館に移動。当たり前のようにほぼ満席で3−Aは後ろの壁に張り付いて高見を決め込む。
「おう、座ってりゃいいのに」
同じく壁際に立っている書記女史を見て、竜児が驚く。
「私も生徒会だから立ってようって思って。見回りさぼってたけど」
ぺろり、と舌を出して笑う。へーそうですか。本当にそうですかね、うちのクラスの誰かさん待ってたんじゃないの?。と横に立つ書記女史の楽しそうな横顔を見ながら竜児は思うが、木下の件があったので改めてゲスの勘ぐりはしないことにする。
「おまたせしました。それでは、本年度ミス大橋高校コンテストを開催します」
アナウンスと共に照明が落とされ、ざわついていた体育館も真っ暗になり、ひそひそ話のボリュームが落ちていく。そして、効果音と共にステージの中央に3本のスポットライトが当てられると
「え?」
「おお」
「すげぇ」
「わははは、いーぞーっ!」
館内が歓声に包まれる。スポットライトの真ん中にはちんまい鎧武者が立っていた。大河、お前なにやってんだよ。
鎧兜は遠目によくわからないが、段ボール製だろう。大河のサイズなら端午の節句用の鎧兜が使えそうだが、あらゆる物を壊す大河に高価な鎧を着せる阿呆も居まい。しかしまぁ、作りが丁寧で細かいことは確かだ。ミスコンの準備委員会も
青春の血を燃やしていたであろうことは想像に難くない。
そして、兜には「逢」の前立。大河と同じ名前のドラマにひっかけたのだろう。金色の色紙でも貼っているのか、なかなかの出来だ。実際の所、担当者は「虎」としたかったに違いないが、恐ろしくて出来なかったって所か。猫に鈴、ってやつだ。
左手に軍配、右手にマイクを握った大河は両脚を開き、薄い胸を偉そうに張って顎をつんと突き出すおなじみのポーズ。そして生徒達の歓声を十分に浴びたと思ったか、やおら軍配を後ろに伸ばし、ロックンローラーの如く前傾姿勢になって、
「うぉぉぉぉるるるるららららぁぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!!!!」
と、巻き舌で猛烈にひと吠え。
一瞬迫力に気圧された全校生徒が、呼応するように大歓声をあげる。
「去年のミス大橋高校、逢坂だ!今年は私が司会をやってやらぁーーーーーっ!」
「うぉーーーーーっ!」
誰だよ、こんなシナリオ考えた奴は、と竜児は心の中で突っ込んでいる。考えようによっちゃ元気があっていいんだけど。
しかし、
「ニューヨークへ、行きたいかーーーーーっ!」
軍配を掲げる大河に
「…」
会場は沈黙。すべった?すべったよね、とひそひそ話が交わされる。ま、このギャグは滑ることが前提だ。滑ったら勝ちとも言える。
「ニューヨークへ、行きたいかーーーーーっ!」
「おお」
もう一度掲げられた軍配に、まばらに返事が起きる。あ、そうかとギャグの意味に気づいた奴もいるようだ。
「聞こえねぇぞごるらぁ!ニューヨークへ、行きたいかーーーーーっ!」
「うぉーーーっ!」
かなり大きな歓声が返る。しかし大河様は満足しない。
「聞こえねぇって言ってんだろうが!ニューヨークへ、行きたいかーーーーーっ!」
「うぉーーーーーーーーーーっ!」
振り上げられた軍配に、観客が吠え、足を踏みならす。体育館の中は耳をふさぎたくなる騒音レベル。いつも目障りな格闘ファンの連中だろうか、狂乱状態に陥っている奴等もいる。
「た、たーっ、タイイーッ!! タイーッ!!」
「うるっっっっっっっっっっっせぇぇぇーーーーーっ!」
逆ギレタイガーに会場は笑い声。
ああ、シナリオ書いた奴結構うまいぞと、竜児は前言撤回。
ちょっと狩野すみれ臭いから生徒会が書いたのかもしれない。くそ忙しい北村ってことはないだろうが、ひょっとしたら富家あたりか。トップバッターまでの話の枕で、大河は軍配を上げたら盛り上がれ、下げたら黙れという合図を体育館の生徒達にすり込んでいる。
人間様が虎に調教される場面に遭遇するとは考えもしなかった。
「採点ルールは去年と同じだ。詳しくは手元のパンフレット読みやがれ!よーし、トップバッター行くぞ。1−A、出て来ーーーーいっ!」
大河が軍配を掲げ、会場が拍手と歓声に包まれる。まぁいいけど、出場者に命令するミスコンの司会ってどうなんだよ。
◇ ◇ ◇ ◇
大河の司会は、まあまあだった。
途中何度も舌を噛む上に、丁寧語とため口がぐちゃぐちゃに絡まっているのだ。公平に言って司会としては失格。だが、それを補ってあまりある気迫と、よく練り込まれたシナリオが会場の雰囲気を盛り上げる。きっとどこかにスクリプターも居るのだろう。
一致団結という奴か。全校生徒の視線を独占しようともくろんだ、どこかの腹黒モデルとは大違いだ。
一方、出場者の質も高い。1年生こそ「お帰りなさいませ、ご主人様」のオンパレードで、大河から「あんた等のメイド好きには爬虫類も裸足で逃げ出すわ」と鼻で笑われていた(爬虫類は裸足だよ!とのツッコミが会場から多数)が、2年生は違う。
昨年のメイドばかりだったミスコンの失敗から学び、今年は自分のクラスの姫をどれだけ差別化するか知恵を絞っている。コスプレから正当派の衣装まで色とりどりだ。ま、去年の大河のドレスにかなう奴は居ないけどな、と竜児は指名手配の笑顔。
惜しむらくは、ステージに立つ女の子の線が細いことか。せっかくみんなかわいいんだし。
線が細いのには仕方のない面もあって、大河を知らない1年生の女子は、お笑い担当だと思っていた司会の美貌に度肝を抜かれているし、2年生の女子は今だに手乗りタイガー伝説におびえている。
そんなこんなのうちに2年も終わる。次は3−Aの湯川だ。竜児達は壁際で顔を見合わせてワクワクしていた。3年はさすがに伝説におびえることはないだろう。大河と同じクラスだった旧2−Cの連中も散らばっていることだし、どの程度なら虎に変貌しないか、
おおよその目安がわかっているはずだ。そう言う意味では、大河が司会と決まった段階で、今年のミスコンは3年同志の争いに決定していたのかもしれない。湯川は楽しむといっていたが、どうする気だろうか。
「よーし次行ってみよう。3−A出て来ーーーーいっ!」
偉そうに掲げられる軍配に拍手と歓声があがり、そしてスポットライトに白い衣装が照しだされると、
「おおおお」
低いうなり声が挙がる。よし、湯川。つかみはばっちりだ。
「次の候補者は3−Aの湯川さんです」
アナウンスが入る。大河に全員の名前を覚えさせるのには無理がある。いや、頭はいいし暗記も得意なのだが、ドジだから何かの拍子に全部忘れるのが恐ろしいのだ。名前のコールをアナウンスにしたのは正解だろう。
「3−Aの湯川です。よろしくお願いします」
大河に突き出されたマイクに微笑んで自己紹介をする。
「この格好何?お医者さんごっこ?」
館内が笑いに包まれ、竜児が頭をかかえる。横のクラスメイトに肩の辺りをどやされる。ピーッと声を上げたい。ピーッと声を上げたい。が、湯川は動じない。
「いえ、これは実験室用の白衣です。3−Aのコンセプトは『理系セクシー』」
「おおおおおぉぉぉぉ」
髪をかき上げる湯川に、生徒達は思わず食い入るような視線。結構背の高い湯川は年齢不相応な程白衣が似合っていて見栄えがする。きっとあの白衣をお兄ちゃんから借りたのだろう。変な趣味じゃなくてよかったぜ、お兄ちゃん。
理系の生徒達の中には、やがては白衣を着ることになる者も居る。大学には、あんなお姉さんが沢山居るのかもしれない。という身勝手な妄想が手に取るようにわかる。うまい。実にうまい。まったくポイントを理解していない大河は別として観客は引きつけた。
「ふーん。よくわからないけど。じゃ、なにかアピールしてみてください」
べらぼうに居丈高な大河の司会に微笑みながら、
「それでは、試験管の早抜きを」
と、言った刹那、両手をポケットに手を入れたかと思うと、もう、引き出していた。両手の指の間には3本の試験管がきれいに挟まれている。
「おおおおーーっ」
「やるなー」
「かっこいー」
ぱちぱちと拍手が広がる。3−Aの連中も笑顔で拍手を送る。しかし、やはり理解出来ない虎が約一頭。
「ねぇ、それ、何の役に立つの?」
ストレートに真顔で聞いて会場中を苦笑させ、竜児を引きつらせた。お前司会なんだからお世辞くらい言え!しかし、しかし、しかし、ここでも湯川はめげなかった。おそらく、予期していたのだろう。
「文系の逢坂さんにはわからないかもしれないけど、これが豊かさってものなのよ」
明らかに3年生の特定のクラスだけを狙ったギャグに、会場は当惑。それでも、ターゲットにされた3−A、3−Bは大喜び。大きな拍手がわき起こる。
「湯川ーーーっ」
「いいぞーっノーベル賞ーーっ!」
「湯川愛してるぞーーーーっ」
湯川は喝采を浴びて満足そうに微笑むと、白衣の裾を翻してスポットライトを去った。司会をへこました本日最初の出場者である。
◇ ◇ ◇ ◇
「さぁ、気を取り直して次行ってみようか!3−B、出て来やがれ!」
気を取り直さなければならないのはお前だけだ。と、竜児にテレパシーで突っ込まれながら大河が軍配を上げる。
「次の候補者は3−Bの岸本さんです」
アナウンスと拍手に迎えられてスポットライトに現れたのは、びしっとスーツを着こなした生徒だった。きれいな足をタイトスカートが包み、履いているのはご意見無用のハイヒール。髪をアップにまとめ、顔には銀縁メガネ。白いブラウスにグレーの落ち着いたジャケット。
左腕にはクリップボードを抱いての登場である。
「秘書だ」
「秘書さんだ」
カツカツとヒールを鳴らしながら登場するだけでこちらも掴みはばっちり。
「3−Bの岸本です。よろしくお願いします」
ぱちぱちと拍手がわき起こる。3−Aの野郎共も盛大な拍手を送る。
「OLさん?」
またもやコンセプトを理解出来ない司会に会場が沸く。ここまでぼけられると、これはこれでありかもしれないと思ってしまう。
「いえ、秘書の岸本です。3−Bのコンセプトは、『知的な女』」
おおおおおと、またもや低い声が会場を包む。3−Aの女子も団結してよく頑張ったが、3−Bの女子は母数で勝る。おしゃれで真っ向勝負されると、こうなっちゃうよなぁと竜児は苦笑い。湯川、お前はよくやったよ。ほとんど全部一人でやったもんな。
「じゃ、なにかアピールしてみてください」
「はい、それでは逢坂社長の今日のスケジュールを確認させていただきます」
「へ、私?」
有無を言わさず司会を巻き込んだ。というか、大河は突然のアドリブに弱い。抵抗できずに引きずり込まれる。クラスメイトだけに大河の弱点を知り尽くした上で計画を練ったのか。おそるべし、3−B。
戸惑う大河をよそに、主導権を掴んだ岸本さんは右手でメガネのつるを直し、クリップボードを見ながらスケジュールの確認に入る。
「10時からテレビ東京の社長と会談があります」
「ふむふむ」
実在の団体とは関係ありません!と会場にいる3−Bの生徒からフォローがはいり、笑い声がわき起こる。用意がいいな。
「2時から議員会館で小泉元総理と会談。今後の経済動向について意見を求められています」
ハイブローな会見相手に、手乗りタイガーすげぇー!と、あちこちから無責任な軽口が飛ぶ。会場は完全に岸本さんペース。
「7時からデートです」
「デート?」
色っぽい展開に観客は大喜び。一方の大河は顔を赤くしてうろたえ気味。
「はい。そのお姿ですと先方に失礼ですので、お召し換えを持って参りました。『I・LOVE・RYU』って感じで」
そう言うと大河に考える暇を与えず、兜の「逢」の前立に紙を一枚貼り付けてしまった。
紙には墨で黒々と『竜』の一文字。
どわははははは!と爆笑が館内に渦巻く。司会いじりやめろよ!と顔を真っ赤にしている竜児の横で書記女史が、
「逢坂さーん!高須君ここよーーーっ!」
と、やおら手を振る。
その声に全校生徒が一斉に振り返り、ニヤニヤ笑いを竜児に向けて一斉射撃。ふざけやがって。書記女史め、座らずに居たのはこれが目的だったのか。ひょっとして仲直りさせたのも、このネタの為か。畜生、もう女は信じねぇ。
竜児は逃げることも怒ることもできずに弁慶のごとく立ち往生。
「え、何?何貼ったの?あ、取れない。どうしよう竜児ぃ」
素に戻って口を滑らせる司会が、いっそう観客を喜ばせる。
◇ ◇ ◇ ◇
ゆっくりと暗くなっていく校庭。
「おう、谷本。お前走る気か?」
ミスコンも無事終わり、福男レースをのんびり眺めようとゴール目指して歩いていた竜児は、ふと体操服姿のクラスメイトを見つけて声を掛けた。福男の参加は自由だ。が、昨年結構荒っぽいことになったので、受験を控えた3年生はほとんど参加しない。
参加するとしてもウケ狙いだろう。
ところが、どういう事か陸上部を引退したはずの谷本は上から下まで走る気満々の格好でいる。
「まぁな」
竜児の言葉を軽く流して、歩きながらも屈伸だの何だのと準備体操に余念がない。
「止めた方がいいんじゃないか?俺、去年走ったけど、結構荒っぽいぞ」
昨年優勝した竜児だが、いきなり引きずり倒されるわ、走路妨害されるわ散々だった。それでもあのときは大河に「俺が居る!」と教えてやりたさに必死だった。今年のミス大橋高校は大河じゃないのでどうでもいい。
「あ、お前まさか。木原狙いか」
竜児の顔がにぃっと凶悪にゆがむ。けけけ妨害してやる。と思っているようにしか見えないが、そうではない。おやおや、ここに小悪魔にたぶらかされた男が、と思っているのだ。
ミス大橋高校の栄冠は木原麻耶の頭上に輝いた。
ミスコンは3−Dの香椎奈々子の登場で観客の興奮がピークに達した。少々季節外れながら鮮やかな浴衣をまとって、しとやかな美しさを全面に押し出してきた奈々子。もともと身についているやわらかい物言いや身のこなしが浴衣とばっちりあって、包容力抜群。
美人お化けの噂を聞いて3−Eのクラス展示に押しかけた連中も多かったこともあり、体育館中の男子生徒の潜在的年上願望を呼び覚まして骨抜きにしてしまった。
一方、続いて登場した3−Eの木原麻耶はバリバリのモテ系カジュアル。カジュアルと言ってもブツがちがう。なにしろ上から下まで嫌みではない程度のブランド品でびしっと揃えてあるのだ。当然、ブツを持ち込んだのは川嶋亜美だろう。
しかし、本当の勝負どころはそこではなかった。身のこなしが完璧だったのだ。スポットライトが当たった瞬間から、腰に片手を当てたモデル立ち。自分の魅力を知りぬいた笑みを浮かべ、右に左に、チャームの魔法を振りまく。
そして、優雅さと若さの双方を兼ね備えた完璧な歩き方でステージ前方まで来ると、全校生徒が見守る中、大河のボケも突っ込みもすべて完璧にさばいて見せたのだ。
ミスコンへの出場を禁じられ、司会として全校生徒の賞賛の視線を浴びる喜びも封じられた川嶋亜美。その性悪腹黒モデルが文化祭に向けて全力で作り上げた自らの分身、それが木原麻耶だった。歩き方から笑顔の作り方、視線の持って行き方、
大河との想定されるやりとりから想定不能なやりとりまで、さぞかし厳しく指導したことだろう。亜美の執念にも似た努力は、奈々子が男子生徒の心に呼び覚ましたお姉さん願望を焼き尽くし、麻耶へと振り向かせるだけの力を持っていた。
大和撫子対当世美少女の頂上対決は審査を遅らせに遅らせ、ついに木原麻耶に軍配が上がった。ちなみに本当に大河が軍配を上げた。
あとでわざわざ「二位の香椎さんとは一票差だった」と付け加えられたことから、よほど集計で手間取ったことが察せられる。
しかし、
「いやいや、そうじゃなくて」
と、笑いながら谷本は言葉を濁す。眉をひそめる竜児に
「高須、遺恨試合だよ」
と、声を掛けたのは柔道部の田口。
「遺恨試合?」
そう言われてもピンと来ない竜児に谷本が苦笑しながら
「本当に覚えてないんだな。高須、去年、あのあたりでお前をぶち抜いた中の一人が俺だ」
運動場の一角を指さしてみせる。
「おう、そうだったのか」
昨年、ゴール間際に設置された陸上部のトラップに引っかかり、トップを走っていた実乃梨とそれを追っていた竜児は痛恨の転倒を喫した。そのときに抜いていった3人のうち1人が谷本だったというのだ。
「遺恨と言っても高須がどうのなんて思ってないよ。ただ、今度はうまくボールをよけてやろうと思ってね」
にやりと笑う。3人のうち2人は実乃梨の剛速球に射抜かれてぶっ倒れていた。あれか。
「そうか、まぁ、怪我するなよ」
「ああ、サンキュー」
そう言葉を交わして見送る竜児は、ふと
「おい、田口。お前も遺恨試合か?」
と、体格のいい物理班のリーダーに声を掛ける。振り返った田口は、だが人の良さそうな柔らかい笑顔を浮かべて着ている制服を指す。
「さすがにこれじゃ無理だ。だけど谷本のサポートくらいはできるだろう」
俺はこんな話に弱くてな、と笑う。
ちょっとの間お互いの顔を見つめ合った。そして
「おう、そうか。おれもホームドラマとか友情とか弱いんだよ。ついでと言っちゃ何だが、結構悪巧みも利くんだ。ちょっと耳貸せ」
前科5犯の薄笑いで2人にひそひそ話を始める。
◇ ◇ ◇ ◇
福男レースのスタート地点。もうまもなくスタートと言う時間になって、後ろに並ばずに進路方向から堂々とやってきた人影にブーイングが巻き起きる。
「おい並べよ!」
「後ろいけ馬鹿!」
「もう場所はねぇぞ」
しかし、威勢のよかった声は見る見る小さくなる。
「う、田口さん…」
「高須先輩…」
薄暗い夕暮れ、だんだんとはっきりしてきた3人組の両側は、屈強な体つきの男と、薄明のなかに目だけがぎらぎらと光る痩身の男だった。ついでながら、コース両脇の照明が下から照らすせいで、寄ってみると竜児の顔の怖さは普段の100%増しである。
「おう、確かにこれじゃフライングだ。悪ぃな、ちょっと下がってくれよ」
目の前の1年坊主の鼻先まで近づいてギンと睨むと、ひぃえええと声が上がる。分厚い壁のように密集している人垣が、眼光にぐいぐいと押されて下がる。『高須はヤンキーじゃない』というのは、試験に出る大橋高校用語、という本があれば必ず掲載されているような成句だ。
だが、人間の体は知識だけでは動かないらしい。喧嘩をすれば明らかに竜児より強いだろう体つきの後輩が、汗を垂らして後ずさる。
横目で見ていた田口は人のいい笑顔を浮かべながら
「ははは、高須と逢坂さんは敵に回したくないな。さてと、投げ飛ばされたいのは誰だ」
と、見回す。その一言で、最前列の下級生達がぐいと後退。竜児と田口の作った真空地帯の中、フロント・ロー中央に谷本が陣取ってアップを続ける。
「たた高須先輩、出場禁止でしょう!」
そうだ、そうだと抗議の声があがるが
「俺は『たたたかす』じゃねぇ!」
「ひぃっ!」
一声で制圧。
「出場禁止とは言われたが、走路妨害をするなとは言われてねぇんだよ。おい富家!」
「はいぃぃっ!」
スタート地点で笛を銜えて成り行きを見守っていた副生徒会長に声を飛ばす。
「去年、バスケ部と陸上部は処罰されたか?」
う、やべっと言う声が聞こえてくる。アップをしている谷本も苦笑。バスケ部と陸上部は昨年の福男レースでかなりあくどいトラップを仕掛けていた。おかげでレースは芸能人爆笑運動会のようだった。
「い、いえ、処罰されてません!」
「じゃぁ、ルール変わったか」
「いえ、狩野前会長が定めたとおり変わっていません!」
あたりまえだ。ミスコンはともかく、福男レースはいかにも狩野すみれ好みのイベントだ。すみれ信者である北村の目が黒いうちはルールをいじらせないだろう。田口が人のいい笑顔を浮かべる。
「ははは、じゃぁ問題無いな。今年は3−Aが走路妨害をさせて貰おう」
夜叉か羅刹かといった表情で立っている竜児は、血が吹き出そうな鋭い視線で生徒を見回しながら独りごちる。お前等は『高須は怖くねぇ』と思ってるだろ。それは本当のことだけどな、俺にチンピラの血が流れているのも本当なんだよ。その血の恐ろしさを思い知りやがれ。
あのチンピラのおかげで泰子がどれほど苦労したか…あ、腹立ってきた。
何の罪もない高校生達と向き合いながら、竜児は脈絡無く怒りのボルテージを上げる。口許はゆがみ、目はつり上がってオゾン臭を撒き散らし、握りしめた拳がわなわなと震え始める。
竜児と同じくらい悪巧みが利く連中だろうか、スタート地点の異変に感づいた連中がゴールのあたりからばらばらと駆け出してスタート地点を目指す。しかし、時すでに遅し。
「お、おい生徒会!早く笛吹け」
このままでは状況は悪化するばかりと観念した生徒達が、富家幸太をせかした。
「は、はいっ!位置について!用意!」
ピーッと笛がなり、クラウチング姿勢から谷本がはじき出されるように飛び出した。その横で竜児が、こっそり体操服の名札を読んでいた最前列の下級生を
「西山っ!」
と、どなりつける。
「ひぃっ…うわぁぁぁ!」
びびって足がすくんだ可哀想な西山君は、後ろから押されて転倒。そのまま将棋倒しが起きて5,6人ほどが巻き込まれた。将棋倒しを避けようとしてコースを変えた連中が、もみ合いながらもたつく。
その間に谷本は校庭に設置された照明が作る回廊の中を、矢のように走り去っていく。やや遅れて好位置に陣取っていた連中が谷本に追いつこうと疾走していくが、いくらかのリードは確保できたようだ。
竜児はニヤリと笑って一言。
「計画通り」
さて、俺の仕事はおしまいだなと横を見ると、田口の方はさすが本物。ひっつかむまねをするだけであわてた下級生が蹴躓き、将棋倒しが起きる。田口と竜児をよけて駆け抜けていく生徒達は、さながら立木を避けて走るバッファローの群れ。
「高須、うまくいったな!」
「おう!」
去年と同じルールなら、あの先にもトラップはあるだろう。それを避けられるかどうかはわからないが、あとは谷本が何とかするさ。
「高っちゃーん」
「おう、春田」
バッファローの群れの最後尾あたりを走ってきた春田がゆっくりとした駆け足で笑いかけてきた。
「ずっこいよ高っちゃん!」
「あははは!木原狙いか?ノート狙いなのか?」
両方だよ!と笑う春田と交わしたハイタッチが校庭に響く。
◇ ◇ ◇ ◇
作品一覧ページに戻る TOPにもどる