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 鉄路に車輪が軋むカン高い音をシュィィィン、途切れ途切れに響かせて徐行すると、程なく
停車した。ドアを開けて5人はぞろぞろ片側ホームの駅に降りる。
 がんばってね、と声を掛ける車掌さんに礼を述べ手を振ったりしながら、改札のない無人駅
のスロープを小走りに降りたらすぐのところにある、車止めの左右に散った。
 ここがスタートライン。電車が動き出したら、それが合図だ。

 ふぁんふぁんふぁんふぁんと続く踏切の警報音が緊張をいや増して、誰もが今まで乗って来
た電車を凝視しているなか……、

「あ!あれえー?あれあれあれーっ?!」

 亜美が素っ頓狂な声を上げて山の端を指差した。UFOぉっ!?

 なにぃっ!!……まさかぁっ!……ど、どこだっ?信州といえばUFOの名産地だからなっ
……どこどこどこーっ!?

「あーみん、どこだいっ?どこどこUFOどこっ?あー……み……ん?」

「「「えええっ!?」」」

 電車既にして発し亜美30m先を駈ける、かあ。はっはっはっははっ……やりおる。なんだ
その殿さま風コメントは?バカ言ってねえで追うぞっ。

「クソっ、本当に正々堂々と陥れやがったな!あっ?うっそぉっ??」

 古の技がずばっと決まったのがよっぽど可笑しかったのか、うっきゃーはっはははーっと笑
いながら実乃梨と大河がとんでもないスタートダッシュを決めて、国道まで300mほどの小
路を疾走し始め、竜児と北村も時計を押して後を追う。
 ともかくも、なし崩しにスタート!

「マジか……短距離走じゃねえんだぞ?」
「慌てるな高須。すぐ国道に出るがそこは渡っておかねばならん。恐るるに足らず」

 言ってることは分かる。横断待ちがあって、先の橋のたもとには信号があり、追いつかれて
しまうたびにアドバンテージは消える。そんなポイントtoポイントでスタミナを無駄遣いして
いては間違いなく後半の坂がきつくなるだろう。これはオーバルトラックの競技ではないのだ
から、最適化した戦術が要求されるわけで、専門家の北村が余裕を見せるのはその辺りを考え
てのことだ。

 しかし、もう一人の専門家、櫛枝実乃梨はぶっ飛ばして行ったではないか?という不安が竜
児には同時に芽生えた。勾配が与えるストレスが勝敗に関係ないレベルの能力を持つランナー
なら?当然、先行策がセオリーとなる。
 行くか、控えるか?迷いを抱えて片側一車線の国道に出てみれば車通りが切れず、信号のな
い横断歩道で毒殺同盟が足踏みをしながら止まっていた。ちらっと横目で見て、亜美が綺麗な
顔を歪めて、盛大に、悔しそうに、舌打ちをかます。

「ちぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっ!」

 少佐?少佐なのばかちー?……ヤツとの戯言を止めろォォォ!ちっちゃいのと中ぐらいのが
気楽に混ぜっ返すのと同時に車が途切れた。ちなみにそのシーンでは少佐でなく大佐に昇進し
ているが通称なら少佐で合ってるのであります!


「策士、策に溺れたな?川嶋」
「まだまだ、あたしの抽斗には手があるよっ♪」

 人の好い竜児は次の策なんだ?と訊こうとしたが、ぱっと交通が途切れてリスタート!

 まさに虎だけど脱兎のごとく。律儀に真っ直ぐに横断歩道を渡り切り、アスファルトを蹴っ
て直角に左ターン!駈け出す大河を追って腹にいちもつアリな亜美は斜めに駈け、続いて実乃
梨という展開に、よし、前だと心を決めた竜児がやはり大河と同じように直角に回りダッシュ
に踏み切ろうとした一歩は、

「まあ待て。一緒に行こうじゃないか」
「おうっっっ!!」

 後ろからガシっと北村に肩をつかまれて、不発。

「あれはな、まだ平坦ゆえのオーバーペースだ。付き合う必要はない」
「おうっ?ううーん、んんんんん?」
「脚を使わせておいて坂で差した方がいいぞ」
「……よし、専門家に乗ろう」

 ヘッドワークというのは瞬時に判断を下さねばならないことの方が多い。惜しいことに竜児
はじっくり考え抜く方に特化した秀才だった。バドミントンをやっていた中学時代ならまた違
っていたかもしれないが、実に4年もそうした訓練をしていなかったのだから、ついタンクト
ップに短パン姿の、しかも裾はパンツインの、いかにもマッチョに日焼けした親友に判断を委
ねてしまったのは、まあ普通だろう。

 この作戦がどう出るのか?ここでカメラを先行集団に切り替えてみましょう。

 しぇっしぇっしぇっしぇっしぇっしぇっ!
 はっほっはっほっはっほっはっほっはっほっ!

 先頭はふわっとしたAラインワンピの裾を広がらないように絞って押さえながらの大河、す
ぐ後ろにシュッツシュッツ腕の振り完璧な亜美が続いて、

 あーーーーーっははははははははははっははは!

 大笑いのバンザイポーズで追う実乃梨――これはたぶん大戸島さんごのマネだろう――は余
裕たっぷりに追走している。ストライドは大きく、先頭の大河の半分ほどのピッチで同じスピ
ードを出していて、そうして毒殺同盟はじりじりと後方の男子組を引き離していく。

 僅か100mほど先で、いま走っている国道は土手沿いの通りと斜めにぶつかって信号のあ
る交差点となっているからここもまだ待機策によるスタミナ温存でいいはずだ。ふたたびリス
タートになる可能性は高いと、竜児は落ち着こうとする。

「なあ高須ー。亜美はハ行だが、逢坂はサ行で息継ぎするんだなー?知らなかったー」
「この忙しい時に暢気な……はっはっはっはっ」

 竜児、北村の順で交差点手前の歩道のカーブをのんびり回ってみれば、あんのじょう信号待
ち。但し、毒殺同盟はタッチの差で渡り終えたらしく、ぐんぐん橋を渡って先に行ってしまっ
た後だった。
 おうっ!?こんなの想定してなかったぞ?残っているのは実乃梨ひとり。

「やあ、あーるくん」
「『やあ』櫛枝だけ信号に引っかかったか」
「うん。あいつら点滅みたら速いのなんの。あーぁ可哀想にな〜」


 ――抜くぞーっ、抜くわよこっのチッビ虎ーーっ!
 ――へぇぇぇーんっ、さっせるかあっ!!

 大騒ぎの声が橋の上を遠ざかっていく。
 亜美に煽られいっそうペースを上げて走る大河は上体のバランスを肩だけで取っていていか
にも窮屈そうに映った。

「はっは♪そうだろ櫛枝?あれはオーバーペースだよな」
「あーみんだけね。ありゃ坂が辛そうだ。大河は車通り減ったら腕振るぜ……まだサ行だし」
「大河と駈けっこなんてした事ねえけどな……もしかして実体験か?」

 うん♪高一のときだけどね?才能あるんだから部活入れよーってキャンペーン張ってた頃に
何度かね。運動なんてかったるい、必要ないっていうから、じゃー勝負して負けたら言うこと
きけって。

「で……?」
「あたしまじで一度もヤツに先着したことないんだよ」

 竜児と北村は思わず生唾を呑みこんで顔を見合わせた。


 ぺかっと青になるのと同時に、三人で駈け出した。
 置かれてしまったからある程度追いつこうと北村の言う通りにしたのだが、やっぱりじりじ
り実乃梨が先行していく。
 橋を渡り終えたらそのまま国道沿いの歩道がまっすぐ伸びていき、右前に食堂がある信号の
角で右折するのが地図上での最短コースだったが、竜児が見つけた秘密のコースではそこを曲
がらず、国道沿いをもう少し先で右折するつもりだった。

 実は竜児の算段は早くも崩れている。
 みんな集団で走るだろうという前提疑いもせず、だからこそスタミナ配分が重要と思いこん
でいた。信号待ちで分断される縦に長い展開になっては目標がない。前がバテるはずでそれを
華麗に差すと自らに言い聞かせてみても、届かなかったらという不安感は想像してたより遥か
に強力だった。

 橋を過ぎて早くも上り勾配が感じられる歩道をひた走る。商店もあってこの辺ではメインの
通りのようだけど、歩いている住人は驚くほど少なく、ぶつかったりやり過ごすのに手間取る
心配は少なかった。ただ路地での出会いがしらには注意しておく。

「目標が見えないと不安だろ、高須くん」

 顔を合わさず、ともに前だけよく見て言葉を交わす。

「おう、櫛枝は?」
「あたしにはだいたい見えてるよ、もちろん誤差はあるけどね」
「すげえな。いろいろシミュレーションすんのか?」
「そんなの競技中にできない。相手と自分のメンタルを測るのさ」

 北村とともに、知らず知らずに実乃梨に引っ張られたペースが徐々に上がっていることには
まったく気付けなかった。こんな状態でひとりだけ別のコースを選んで勝てるだろうか?いや、
完走できるのだろうか?とそればかりを考えていた。

 早く決断しないと曲がり角に着いてしまう……着いた。
 竜児は実乃梨の背中を見て、その後ろに続いて右に曲がった。自分に合った歩幅で、スピー
ドを合わせて距離を保ち、それをピッチだけで調整してみる。彼女が今は自分の知らない力を
持っていると信じ、作ったペースに乗せてもらおうと瞬時に決めた。
 これでバテるとしたら、自分が櫛枝より走力で劣るのが現実というだけのことだ。


「ほっほっほっほっほっほっ……高須、フォームが安定していい感じだ」
「おう、そうなのか?自分では分からねえが、この方が少し楽だ」
「このペースなら差を詰めているはずだが……前が視界に入らんと不安になるな」
「そうだな。追いつくと……信じて……悪りぃ、喋ってると早くバテそうだ」
「そう……そうだな。ムダ話はしてられん」

 すぐに行く手に小川が見えて、架かっている橋を渡り始めると実乃梨がちらっと後ろを振り
返って教えてくれた。

「いたぜ……大河とあーみん」

 指差す方向に、川の向こう岸で左へ向かってダラダラ登っていく道をすっかり歩くようなペ
ースに落としている亜美が見えた。上下動が目立つ割には前へ進むのは稼げていないようで、
対して、その数十メートル先を大河が走っていた。
 竜児は思ったよりついている差が大きいと思い、歩道のない細い道を後ろを振り向き振り向
き車に気をつけて、そうして思い切り腕を振って駈け上がっていく大河の姿を小さく認めた。

「ペースもうひとつ上げるぜえ。まず矯めてるあーみん食らうぜー♪」
「おう……矯めてんのかありゃ」
「おう。あれで走り込み結構してるからな。バテてる振りだろう」

 追い上げていくと、亜美が気づいて振り返るのが見えた。なるほどバテてまではいないよう
で、オーバーペースに気づいて落としたのだろう。引きつけてから再びピッチを上げ始めたが、
少しずつその背が近くなるのがわかる。勾配が響いて歩幅が取れていないのは、こちらも変わ
らなくて、いっきに抜き去るなんて芸当は難しい。

 机上の計画とは大違いで、こんな細い道なのに交通量がそれなりに多いなんて想像もしてい
なかった。後ろを注意しながら、車が近づけば端のガードレールにぴったりと、亜美を先頭に
縦一列で進むしかなかった。
 車が途切れない限り並んで追い抜くのは危険だしドライバーにも迷惑だ。
 が?
 その間隙を縫って、実乃梨がアタックを仕掛けた。よおあーみん、お先に行くぜ?車に気を
つけなだぜ。言い置くとグイッと集団の先頭に飛び出た。た〜い〜が〜ぁと雄たけびを……そ
んなには大きくない声で上げて、猛然とピッチアップ。みるみる引き離して行く。

 竜児にはその後ろ姿を見送った記憶があった。
 頭に血が上っていて、いろいろ考え抜いたと思っていたことのほとんどが脱げ落ちて、丸裸
に近くなっていた心の側を追い抜いて行った背中に本当に突風を感じた。
 その瞬間の高揚した気分に。学校のトラック1/3周ぶんの間だけ味わった興奮するあの感
覚にまた出逢った。

 後続を振り返り、告げる。

「はっっ、はっっ、俺も……行くっっ!」
「おうっ……行けっ」
「川嶋っ……右からっ……抜くぞっ……はっっはっっ」

 亜美は息を継ぐのに忙しく答えられないようで、その代わりにジリッとペースを上げて抵抗
の意志をはっきりと示した。これを追い抜くのは手ごわいぞ、夜叉の顔になった竜児は耳まで
裂けた口の端から長い舌をベロンと出して唇を舐め……るような雰囲気だけを漂わせてアタッ
クチャンスを探る。

 もし通行人がいて彼らの姿を見たなら、美少女を襲う変質者に見えたことは間違いない。



 その頃。
 孤高の虎はさらに上の信号にたどり着いていた。

 ――かがさわばし、合ってる

 横断歩道がある橋の中央まで進み、信号が変わってそこを渡る。すぐ右の坂を登って、左へ
別れる道へは行かないっと。渡ってみると勾配は更にきつくなっていて、通る車は偶々途切れ
ていた。

「ウォッシャァァァァァアッ!」

 気合い一発、裾をつかんでいた手を離す。
 たぶん、理屈からいったらメチャクチャなフォームなのだろうけど、そんなことは逢坂大河
に関係がない。速ければ、結果が出せればそれで良かった。

 しばらく忘れていた。立ちはだかるものを全力で蹴散らす感覚。かつて諦めや、悔しさ悲し
みと共にあったそれは、何故だろう?今はただ快いばかり。この身が砕けようとも一切の迷い
なし、世はなべて空。空不異色、空即是色。そう、解き放たれたこの脚はもう止まらない。止
めなくてもいい。立ちはだかっているのはただの坂だから。全力で蹴散らそうと、誰も、自分
をも傷つけることはないのだから。遠慮は要らない。結果が待っているだけ。星屑のようさ今
のふたり。

 ――やぁーっっってやるわよっ!!

 まるで平坦な道ででもあるかのように、ぐぐっと上体を沈めて脚を回転させ始めれば、いま
までと比べようもないスピードに乗って駈け上がる。しぇっしぇっ言っていた息継ぎが短く縮
まり周波数を上げて高い音に、舌うちのごとくチッチッチッチッと聞こえてくる。
 100m、200m、順調に区間最高を出しながら、道が分かれれば右へ。右へ。暗記した
地図どおりに距離を稼ぐ。うっわーーっ苦しいぃっ、ひぎぃぃっ、きンもちいいーー!

 でも後ろから車が近付いてくる音がすれば……おっとととと。
 裾を絞り道の端にぴったり張り付いてやり過ごして、また歩きだす。

(まあね)

(事故に遭ったりしたらみんなに迷惑かかるもん)

 しかし一度歩いてしまうとふたたび走り出すのはなかなかに覚悟がいるもので、ついついダ
ラダラ歩いてしまって……いけないいけない、追いつかれちゃう。肉が。まつざかさん。すき。
すてき。

 聡い大河と言えど、疲れれば判断を誤っても仕方なかろう。既に自身の勝敗に松坂牛は関係
していないことも思い浮かばない。で、

「ウォッシャァァァァァアッ!」

 繰り返し、雄たけびを。そして、ああ〜。道を。

 ―――――――間違える。



 再び、時間とカメラを後続集団に戻してみよう。

 亜美がピッチを上げたことで男子組も引っ張られ、実乃梨との差は詰まっていた。大河が2
分くらい先行して駆け抜けた加賀沢橋交差点で信号に引っかかり、ここでまたもリスタートと
なるが、休息で回復するスタミナは、もはや各人で大きく差がついているようだった。

 普段、家事通学はこなしていてもスポーツやトレーニングを一切やっていない竜児は、自分
の状態が一番下だと思っていた。だから、北村祐作の盛り上がった肩と背筋がいつまでも大き
く上下に動いているのに違和感を覚える。
 実乃梨の回復が早いのも、大河のペースに乱された亜美がダメージを負ってるっぽいのも想
定どおりと言うのに。

 信号が変わって、ダッシュ!
 目の前で亜美の脚がもつれてグラっとバランスを崩すのを、竜児はとっさに肩をつかんで支
えた。ゴーグルの中の目と視線が合うと一瞬だけ感謝をあらわしてサッと振り払われる。声を
出す余裕はもう無く、大丈夫という意志表示に竜児は頷き、そのまま追い抜いて先頭の実乃梨
と続く北村を追った。

 ここからが勾配がいちばんきつい“心臓破りの坂”だ。

 次の、最後の信号まで約570mあって、また地図で見る限り河岸段丘の斜面を登る道とト
ラバースする道が交わり、それらを斜めに緩い勾配でつなぐ道が複雑に入り組んでいる、まさ
に勝負どころと言えた。

 ――坂は大丈夫、だが道を間違えてねえだろうか?

 大河の心配をしていられる状態ではないと分かってはいても、姿が見えないとどうしても不
安に思う。自分の力の足りなさに歯がゆく、見通せる範囲をもっと、今すぐにもっと広げたい
と願ってしまう。竜児は、重くなっていく腿を上げる一歩一歩がそのためにあると思う。

 北村を抜いた。というより後先を入れ替えてくれたようだった。視界に先頭の背中が飛び込
んできた。

 そして突然、まったく脈絡もなく突然に、前を行く実乃梨を追えばそんな力が手に入ると思
えた。あの背中に追いつき、追い越したいと思った記憶に残る感覚と、それに伴っていた清々
しくも熱い高揚感がなんなのか、突然にぜんぶ分かってしまった。
 それは恋しさにも、思慕にも、友情にも、憧れにも、ぜんぶつながっていた。なにかを選ん
で、みんなそれぞれ分かたれた道を進んで行く。それが分かってからずいぶん時が経って、頭
で理解していたことが、ようやく身体にも届いたようだっだ。

 Y字の分かれ道を右へ。またY字を右へ、正しいルートを選んで登る。は……ははっ……口
も利けないのに知れず笑い声が漏れる。閃くっていうのはこういうことか、数学の解法を閃く
のとはずいぶん違う気持ち良さだぞ、大河。じぶんのことが分かっていくのは、面白えな?

 顔を上げて櫛枝実乃梨の背中を見つめた。
 ようし、ぎりっと奥歯を強く噛みしめて思った。追いついてやる。後ろから車が来ないかち
らっと見やると、驚いた事にすぐ後ろにぴったり亜美が喰らいついていた。突然立てた笑い声
に少し驚いているようで、その後ろに、何かあったらいつでも手を貸せるような距離に明らか
にバテぎみの北村が表情を歪めて続いていた。

 ――みんな、同じだ

 行こう。
 竜児は蹴り足に交互に力を込めて追い出した。



 再び。こちらは道を間違えてしまった大河。

 左へ曲がれば駅へと至る最後の辻を直進して、ついに本格的に行き過ぎてしまって、やけに
細い住宅街の中の道を、平坦になったのをいいことに猛スピードで駆け抜けるうち……緩やか
な登りを右へカーブして線路わきに出てしまう。

 む?
 現れた線路を見て立ち止まり、目を丸く見開いてオーケストラの指揮者のような手つきをし
てみた。踊っているわけではなく驚いているのだ。

(……飯田線……よね?たしか線路は越えないはず。竜児と読みあわせたんだから)

(でも駅は見当たらない、右か、左か、どっちかの方向に駅があるはず、確率1/2か)

 肩で息をしながらもう少し先へと歩いて、線路の上を横切る陸橋のたもとに出たタイミング
で、遠く踏切の警報音が聞こえてきた。橋の上から音のする方を見れば、2〜300mほど離
れたところに駅が見えた。
 よしあっち!慌てて今来た道をダッシュで引き返し、もう線路の方向は分かっているから、
最初の路地をそちらへと曲がった。

 息も戻って再び走れる。瞬速で線路沿いの道に出てそのまま駅の方向に走れば1分以内に着
ける。しかしそれは2回左へ曲がって陸橋のたもとへと伸びる元の道路に帰ってきてしまう、
カタカナのコの字でくっ付いてる生活道路だったのだ。

 ――何で、何で何で何でなんで線路沿いの道が駅前まで延びていないのよっっ

 常識でしょっっ!と都市生活者経験しか持たない大河の眉尻がキリキリ釣り上がって目が逆
三角になる。怒っているわけでは、あ、いや。間違いなく怒っていた。しかも相当に。

 八つ当たりの相手もいない。昼下がりの住宅街は人っ子一人いなかったし、仮にいたとして
当たるわけにもいくまい。せめて頭でも掻き毟ろうと手を伸ばして、あ、ここで解れたらこの
あと走るのに邪魔になるし危ない、うっがぁーーっ!なんでこんなに伸ばしてんだ私、と、こ
の辺もキレる直前に踏みとどまる、あとできることは地団太を踏むくらい。よしそれ!

 (あれ、そういえばどう踏むんだろう?地蹈鞴の音変化だから、たたらを踏めばいいのよね)

 こうだっけ、それともこう?こんなので悔しさが消えるわけ……あ、なくなってる?
 きっちり30秒ほどロスしただろう。踏切が鳴りだして結構経っていたからもう寸秒もムダ
にはできない。その時になって、さっき駅の方向を発見した陸橋の向こう側には線路沿いの道
が延びていた映像記憶がよみがえる。これよ!

 またダッシュで、陸橋を全速で駈け渡りながら中央で止まる。
 向こう側の線路沿いの道は記憶通り確かに駅方向に延びていたが……惜しくも駅の手前で途
切れているように見える。どうしよう?行けるとこまで走って後は?
 柵を乗り越えて線路を走ればホームに数秒で。とも考えが一瞬浮かんだがそれはできない。
してはいけないと考えてる自分にもちょっと驚いていると、遠く、向かってくる電車の頭が見
えた。もう猶予はない。

 元の道を逆走して、曲がれるところを総当たりで右へ曲がってみるしかない。さっき地団太
を踏んだ時に気づけ、ばかっ。小賢しく近道をさぐろうなんて碌なことにならないのよっ!
 走りながら右側の路地に注意を払う。一つ目と二つ目はさっきハマった罠だった。そこから
50mほどで住宅街から少し広い道まで戻って、これだった!と閃いた。



 なんで最初に通った時に閃かなかったのか。勘働きには自信あったのに。名前や喧嘩っ早い
のでタイガーと呼ばれたのには忸怩たる思いがしても、野性の勘をもって呼ばれたならそれな
りに少し誇らしいのに。
 ああ〜っ、竜児に餌付けされて可愛がられてぷくぷく鈍っちゃったぁ〜?幸福は人を墜落さ
せる、正しくは堕落だけどと詮無いことも考えて、焦る気持ちとともに右へ曲がってひたすら
走れば、ふぁんふぁんいってる踏切に近づいているのが音でわかる。

 区間最速自己記録を更新して100m近くを一気に走った。

 苦しさのなかでも少し冷静になって目的を思い出してみれば優勝してまつざかさん、は関係
なかった。
 自分が引き受けた課題は再乗車してふたりの荷物をきちんと保全することにあって、あのウ
ザすぎるほど偏執的にきちんとした竜児が、自分は遅れても私ひとり間に合えば、電車に荷物
を置き忘れたことにならないと妥協した、つまり信頼して託されたのだ。気づくのいちいち遅
いっ!
 だが応えずにいられようか。ギリギリギリギリギリギリギリギリ奥歯を噛んで。

 走り切った。いかにも地方の駅前っぽい広小路に出れば目の前には踏切があり、ぶわぁっと
止めていた呼吸を再開し、大きく吸って、吐いて、また吸って、少し左の方に離れた目指す駅
を見つけた。Coming home to INAKAMISATO.

 そして。

 目の前の踏切を電車が走り去っていくのを見た。電車の中から自分を見つけた亜美と実乃梨
が窓越しに慌てて何か言っている姿を、大河はまん丸に瞳を見開いて、クチを△の形にして、
ただ、為すすべもなく見送った。


 …………ふぅぅーーぅぅぅぅーーーっ。

 長くため息をもらして、ポニテは重いだろうとみのりんが二つに分けて結ってくれ、三つに
折り返してヘアゴムできっちりと縛ってくれた卑弥呼さまヘアーをはらっと解いて、汗止めに
必勝ハチマキよろしく額に巻いたバンダナも解いて、空を見上げてみる。

 (はあぁぁ〜〜ぃきゃんっギッヴュっ…………え〜ぇにぃ……しぃぃ〜んっ……♪)

 力の抜けた唇で小さく口ずさむフレーズ。薄曇りの雲が切れて、どこまでも澄んで青い空が
広がり始めていて、いつの間にか処暑の日射しに照りつけられていて。
 ふと気がつく煩いばかりの蝉の声。つっと汗が流れおちて眉を越え、睫毛にとどまり、キラ
キラとした宝石のような光がその瞳には見え。その耳には大河のいまの気持ちのすべてが込め
られたスタイリスティックスの『愛がすべて(原題:Can't give you anything,but my love )』が
どこからか聴こえてきて。

 吹き抜ける微風にほわほわウェーブの髪を遊ばれては快い涼しさを感じ、空を見上げたまま
去りゆく夏を想わせる切ないトランペットのイントロを聴き、そうして畳んだバンダナでデコ
を拭う。

 (泣いてなんか、ぃいないんだからっ!ひぐっ!)

 そうして肩を落とし、ぐしぐし鼻を鳴らしながらゆっくりと歩き出した。

 (ギャッツビーィ……


――つづくっ!

--> Next...




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